今朝の朝日新聞の文化欄に、中西進氏の万葉集にある中大兄皇子の歌の解説が出ていました(万葉こども塾に)。どうしても、その解説に異論を唱えたく、今日も、又、横道です。お許し下さい。
さて、その歌は
わたつみの 豊旗雲に 入日射し
今夜の月夜 清明己曾
です。
この解説で、中西先生は、これが詠まれた場所として兵庫県加古川付近の海上だとされていました。それについての異論です。どうして加古川付近だとされたのか分かりません。その前に出ている歌が、その中大兄の例の香具山と耳梨山の歌です。それで、豊旗雲の歌の読まれた場所も、加古川付近だとされたのではないかと思いながら読みました。
でも、我田引水的なこじつけであるのかもしれませんが、このお歌は、どうしても、吉備の国の穴海付近を航海された時に詠われたのでなければならないと、私は思っているのです。
原本には
「渡津海乃 豊旗雲爾 伊理比沙之 今夜乃月夜 清明己曾」
と、でています。
これを私は次のように読みました。まず、「わたつみ」というのは〈吉備の津付近にある穴海という所を渡っている〉と
この場所は、神武天皇が東征される時、その兵力増強のため、3年間も、留まったとされる仮の御所が設けられた「吉備の中山」付近の吉備の穴海(現在の庭瀬辺りの海)です。
その時、中大兄は、この度の斉明天皇の百済遠征の勝利を、そこに鎮座まします吉備津宮に祈った事は疑う余地はありません。何せこの吉備津神社は「西国一の戦さ神」と歌われていたお宮さんです。せめて船上からでもとお思いになってでしょうか、暮れなずむ瀬戸の多島美と一緒に浮かぶ吉備の中山の麓にある吉備津宮に手を合わされたのでした。
私の住む吉備津から、一年に何回か、とくに此の吉備の中山から、西側にある日差山や、鬼ノ城辺りの空にに懸けて帯状になって伸びる、所謂、豊旗雲が、秋や春の入り日を浴びながら、見事な夕焼けを展開させている光景を、たびたび見かけることがあります。この中大兄が見た豊旗雲は三月の空にたなびいていたのです。
その中大兄が船上から見た入り日を受けた横に大きくたなびく雲は、天の階段(きざはし)かとさえ思われる様な日差山の上にまで広がっていたのです。皇子はその山を見て、
「あれはなにか」
「はい、ひさしやまです」
「そうか、ひさしか」
と、歌われたのだと思っています。決して、印南の海ではなかったのです。吉備の海でなくてはならないのです。それは、その前日に、その船の上でお生まれになった大伯皇女もためにも吉備の穴海でなくてはならないのです。
その皇女の将来の為にも、「清明」、そうです、清らかれ明るい子であってほしいと願うのが親の温かなる情でもあるのです。なお、この「清明」を、あなたはいかに読まれますか?「スミアカク」「アキラケク」「キヨクテリ」。中西先生は「サヤケカリ」とお読みになっておられます。
なお、その解釈についても、雄叫びの悲痛な訴えではなく、静かなる神への祈りだと、私は思っているのですが、どうでしょう。「己曾」をどう読みとればいいのでしょうかね。「そのようにあってほしい。おねがいします」では
「お前さんが、いくらそんな事を思っても、そんあことはありゃあへん。見当違いもええ所じゃ」と、云われること間違いないのですが、兎に角、こんな思いが新聞を読みながら頭を横切りましたので書いてみました。
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