藤井高雅はいくらぐらいのお金を、倉敷の大坂屋源介から借りていたか、その金額が分かる書類が残っています。
明治2年に、この源介から、高雅の息紀一郎に宛てた書き付けがの残っています。それによると、何やかやと総計にすると百八十一両にもなっていたのだそうです。
一両が12万円として計算しますと、1200万円にもなります。
こんな大金を、この大坂屋源介は高雅が京にて不慮の死を遂げた後、子息紀一郎に対して、当時、藤井家にあったのでしょう、多分、祖父の高尚あたりが貰ったのでしょう本居宣長の短冊一枚を持って、この百八十一両もの借金を棒引きしています。
どのような経緯があったのかは明確にはなっていませんが、兎に角、源介こと林孚一のとったこの義侠心は、長く吉備津では言い草の種になっていたのです。
これも今では、林孚一と一緒に、知る人もなく、この吉備の里「吉備津」から完全に消え去ってしまっているのです。
これは私の勝手な推測なのですが、大坂屋源介にこんな義侠の心を起こさせたのは、多分、緒方洪庵も一目置いていた、高雅の母「堀家喜智」が大きな部分を占めていたのではないかと思います。どのようないわく因縁があったかということは記録には残っていませんが、それ以外に何かこれといった理由を探そうにも何も無いのです。
そんな女傑と言っていいほどのお人が此の吉備津にはいたのです。
明治2年に、この源介から、高雅の息紀一郎に宛てた書き付けがの残っています。それによると、何やかやと総計にすると百八十一両にもなっていたのだそうです。
一両が12万円として計算しますと、1200万円にもなります。
こんな大金を、この大坂屋源介は高雅が京にて不慮の死を遂げた後、子息紀一郎に対して、当時、藤井家にあったのでしょう、多分、祖父の高尚あたりが貰ったのでしょう本居宣長の短冊一枚を持って、この百八十一両もの借金を棒引きしています。
どのような経緯があったのかは明確にはなっていませんが、兎に角、源介こと林孚一のとったこの義侠心は、長く吉備津では言い草の種になっていたのです。
これも今では、林孚一と一緒に、知る人もなく、この吉備の里「吉備津」から完全に消え去ってしまっているのです。
これは私の勝手な推測なのですが、大坂屋源介にこんな義侠の心を起こさせたのは、多分、緒方洪庵も一目置いていた、高雅の母「堀家喜智」が大きな部分を占めていたのではないかと思います。どのようないわく因縁があったかということは記録には残っていませんが、それ以外に何かこれといった理由を探そうにも何も無いのです。
そんな女傑と言っていいほどのお人が此の吉備津にはいたのです。