「先生温良寛弘にして家人といえども、曾って喜の色を見ず・・」
と、「熊沢了介先生事跡集」に書いています。
また、ある本には
「・・・威儀厳正なり、王侯夫人もこれを望めば粛然として容を改め、児女もこれに侍すれば温乎として笑話す、文雅にして、客を好み、賓客及隊士を会し、文を論じ武を談じ、相視る事骨肉の如し・・・」
と、あります。
このように伯継先生は、雅やかにして、お客を好んで、誰とでもよく会って、儒教などの学問について論じ、また、武芸についても激論が交わされていたという。又、家では喜怒哀楽を顔に出さず、いつも穏やかに暮らしており、常に倹約にこころがけ、つつましやかな暮しであったのだそうです(家法甚倹なり)家族は早寝早起きに徹して、女中さんも少なく、衣服もいたって質素で、飲酒はしなかったのだそうです。「泊然として営むことなし」と書かかれていまので、敢て、飲めたにもかかわらず呑まなかったのではないかと思われます。
このように先生の家では、いつも行儀作法は正しく、家として当然守らなければならこと(家道)がきちんと斉い、周りの人々の家庭生活のお手本であったと言われています。その為か、周りの家々でも、その先生の家庭を見習って、誠につつましやかな規律ある家庭が多かったと、当時の蕃山村の人々が語っていたという話が、今に伝わっているのだそうです。
と、「熊沢了介先生事跡集」に書いています。
また、ある本には
「・・・威儀厳正なり、王侯夫人もこれを望めば粛然として容を改め、児女もこれに侍すれば温乎として笑話す、文雅にして、客を好み、賓客及隊士を会し、文を論じ武を談じ、相視る事骨肉の如し・・・」
と、あります。
このように伯継先生は、雅やかにして、お客を好んで、誰とでもよく会って、儒教などの学問について論じ、また、武芸についても激論が交わされていたという。又、家では喜怒哀楽を顔に出さず、いつも穏やかに暮らしており、常に倹約にこころがけ、つつましやかな暮しであったのだそうです(家法甚倹なり)家族は早寝早起きに徹して、女中さんも少なく、衣服もいたって質素で、飲酒はしなかったのだそうです。「泊然として営むことなし」と書かかれていまので、敢て、飲めたにもかかわらず呑まなかったのではないかと思われます。
このように先生の家では、いつも行儀作法は正しく、家として当然守らなければならこと(家道)がきちんと斉い、周りの人々の家庭生活のお手本であったと言われています。その為か、周りの家々でも、その先生の家庭を見習って、誠につつましやかな規律ある家庭が多かったと、当時の蕃山村の人々が語っていたという話が、今に伝わっているのだそうです。