この手記の中で、春子は
[文部省から第一回の分として女学生を海外に留学させることになり、その選に私も入った」
と書いています。
でも、確か、わが国最初の女子留学生は明治4年に咸臨丸で行った津田梅子(当時6歳)などだったのですが、でも、これは、いわば私的なものであって、公式なものではなかったのです。
その梅子たちの留学時に写した写真がありますので見てください。当時の日本女性の服装と一緒に。これが普段の服装です。(これは晴れ着ですが)

この写真からも伺えるのですが、当時の女性の服装は、当然、和服が普通です。洋服なんか見たこともないし、当たり前のことですが、着たことさへもありません。だから、海外への留学ともなれば、春子たちのように洋服の着方も勉強する必要があったのです。
でも、見てください。この時、留学した女性たちの顔を、どの顔も自信に満ちています。なお、この写真の中央にいるのは、時の駐日米公使ラロング夫人です。英語を教えていたのです。その左隣にいるかわいい子が6歳の津田梅子なのです。心配顔で写っているのが当たり前なのですが、この写真を見る限りでは、気配すら見えません。かえって、これからアメリカへ行って勉強するぞと言う、気力が満ち溢れた姿で写っています。よほどの才女だったのでしょう。
この写真を見るたびに、いつも思うのですが、梅子の両親はよくも承知したものだと。それまで鎖国をしていた日本ですよ。アメリカの事情も何も知らない所に、6歳の子供をよくも平気で、遣ったものだと感心しています。その裏には。ラロング夫人の働きが余ほど大きかったのではと思いますが。
ラロング夫人が、5人の女子留学生たちの親からも余ほど信頼されていたからでしょう。そうでなかったなら、誰がアメリカみたいな、当時の日本人が誰も行ったこともない所にです。最愛の子供を、それも女の子をですよ。どこの親が遣るでしょうか。
相手を「信頼する」と言う事は、とてつもない未知との遭遇でも乗り越えるだけの力を相手に与える基になるのです。
岡山弁て言いますと「でえれえことをするもんじゃなあ」です。
一方、春子が留学を拝命したのが明治12年ですから。梅子らに遅れること8年ばかり後になります。春子19歳の時です。これすらも、よほど勇気がいったことだと思われます。それだけの精神的な強さが当時の日本の女子にも備わっていたのです。
たった6歳の女の幼な子にさえ、未知なるものを積極的に学び取ろうとするハングリー精神が旺盛であったかと言う事を物語っています。今、こんな力を持っている親や子がいるでしょうか?
「明治の力」とは、いったいどんなものだったのか、現代では到底想像さえつかないようなとてつもない大きな「ど」力ではなかったかと、思えるのですが。
[文部省から第一回の分として女学生を海外に留学させることになり、その選に私も入った」
と書いています。
でも、確か、わが国最初の女子留学生は明治4年に咸臨丸で行った津田梅子(当時6歳)などだったのですが、でも、これは、いわば私的なものであって、公式なものではなかったのです。
その梅子たちの留学時に写した写真がありますので見てください。当時の日本女性の服装と一緒に。これが普段の服装です。(これは晴れ着ですが)

この写真からも伺えるのですが、当時の女性の服装は、当然、和服が普通です。洋服なんか見たこともないし、当たり前のことですが、着たことさへもありません。だから、海外への留学ともなれば、春子たちのように洋服の着方も勉強する必要があったのです。
でも、見てください。この時、留学した女性たちの顔を、どの顔も自信に満ちています。なお、この写真の中央にいるのは、時の駐日米公使ラロング夫人です。英語を教えていたのです。その左隣にいるかわいい子が6歳の津田梅子なのです。心配顔で写っているのが当たり前なのですが、この写真を見る限りでは、気配すら見えません。かえって、これからアメリカへ行って勉強するぞと言う、気力が満ち溢れた姿で写っています。よほどの才女だったのでしょう。
この写真を見るたびに、いつも思うのですが、梅子の両親はよくも承知したものだと。それまで鎖国をしていた日本ですよ。アメリカの事情も何も知らない所に、6歳の子供をよくも平気で、遣ったものだと感心しています。その裏には。ラロング夫人の働きが余ほど大きかったのではと思いますが。
ラロング夫人が、5人の女子留学生たちの親からも余ほど信頼されていたからでしょう。そうでなかったなら、誰がアメリカみたいな、当時の日本人が誰も行ったこともない所にです。最愛の子供を、それも女の子をですよ。どこの親が遣るでしょうか。
相手を「信頼する」と言う事は、とてつもない未知との遭遇でも乗り越えるだけの力を相手に与える基になるのです。
岡山弁て言いますと「でえれえことをするもんじゃなあ」です。
一方、春子が留学を拝命したのが明治12年ですから。梅子らに遅れること8年ばかり後になります。春子19歳の時です。これすらも、よほど勇気がいったことだと思われます。それだけの精神的な強さが当時の日本の女子にも備わっていたのです。
たった6歳の女の幼な子にさえ、未知なるものを積極的に学び取ろうとするハングリー精神が旺盛であったかと言う事を物語っています。今、こんな力を持っている親や子がいるでしょうか?
「明治の力」とは、いったいどんなものだったのか、現代では到底想像さえつかないようなとてつもない大きな「ど」力ではなかったかと、思えるのですが。