高尚は、更に、文章について、次のように言っています。
「文章は歌よみにても神道家にてもすこしはまなぶべきもの也。これをまなばざれば一くだりかく歌のはしがきもはやあやまりて見ぐるしきもの也。神道家もこれをかかざればなにをもてことをしるしおくべき。さてかき候と甚おもしろきものに御座候。野生は歌よりも文章をこのめり。」
ここに見られるように、高尚は何に付けても文章を書いております。例えば、先に挙げた自分の著書三〇巻を天保六年正月に吉備津神社に奉納しておりますが、その時にも奉納のための祝詞もわざわざ宣命体で書いております、更にその書に添えた歌まで作っております。あやごろももという文に
「二日けふもも同じよそひにてまゐり三十巻の書の箱にいれたるをささげ奉る。その書にそへたるうた
さくら木の板にゑりてもみそ巻のふみのことばの花ぞ色なき
此ふみどもはおのれわかかりし時より物まなびに深く心いれてみそじにあまれる頃・・・・・・」
と。
また、その年の九月には京の吉田家より霊号を賜っておりますが、この時にも、その喜びろ宣命体にて文章に書き現わしております。このように何か事あるごとに高尚は文章に書き表しており、<甚おもしろきものとか文章をこのめり>とかいているように、そのことを実証しております。