「どうして新之助をあなたが知っているの」
怪しむように、じろりと見下すような眼差をして、その憎々しさを、まだ、一杯に顔に表しながら、須香さまは、小雪の方にいざり寄って近づいて来られるのでした。
小雪のどう対処したらいいか分らないような困惑の色をお感じになったのかもしれません、横から、林さまが
「須香さん。まあ一杯どうですね」
と、ご自分の猪口を差し出されました。須香さんと呼ばれたそのお人は、ややあわてるように
「まあ、とんでもありません。私がお酌しなくてはならないのに、失礼しました」
と、冷え切っている徳利を両の手で、暖めるかでもしているようによっくりと捧げながら、林さまにお酌して差し上げられました。
「なあ、お須香さん。随分とご心配かけたね。・・・・あなたのご心配分らぬでもないが、どうしても、今日は、この小雪を奥様の前に引き出さねばならないわけがあってね。ごめんよ」
そして、林さまは、相変わらず膝に置かれていた両の手で持たれていた盃をゆっくりとお口になさいました。
「そうです。文月25日の夜です。京で高雅さまと、此度の琵琶湖疎水工事ご融資について細かな打ち合わせをしておりました。お側には新之助さんもお出ででした。何時もの例ですが、小雪も、勿論、私が呼んでおりました。しばらくして、別に特別なお話があったわけでもまく、新之助さんたちがいてもいなくても別に構わなかったのですが、高雅さまはどんな了見か知らないのですが、とにかく、この若い二人を、我々の話から故意に遠ざけられておしまいになられました。高雅さんの特別な計らいであったのかもしれませんな、あはっは・・」
この林さまの高笑いに、小雪はあの晩のことが今更のように甦ってくるのでした。
「また、今夜も新之助様とお二人だけでお話できる。よかった。さえのかみさまありがとう」
と、あの時の、ひそかなあまり期待もしてない、自分に置かれている身に対する、それでも小さな小さな誰にも言えない喜びみたいな物をひたひたと感じたように、今でも覚えています。
「しばらくお話をして、その後、別室の若い二人をお呼びになりました。『今晩はここにお泊りになって、明朝お帰りになっては』と言ったのですが、『山田が心配するから』とか何とか言われて、夜も大分更けた京の町に、新之助さんをお連れになってお帰りになりました。『小雪も、では、そこら辺りまで』と一緒に送り出しました。河内の玄関から3人を送り出して、ほんのいくばくもたってないと思いました。私の部屋に入ろうとした時、表のほうから、「ぎゃ」という声とともになにやらけたたましげな騒動の気配が耳に入ってきました。とっさにある種の胸騒ぎが私を覆い包みました。『天誅』とか何とかという甲高い天を突くような声も闇を通して辺りに響いていました。話には聴いたことがあったのですが、生まれて始めて聞く声です。一瞬、『何事もなければ』という思いに駆られました。
どのくらい時間が経ったでしょうか、しばらくして、辺りは元の静寂さに戻りました。
ばたばたと大勢の人達がその往来の辺りから足早に立ち去る気配もしていました。その時です。私の泊まっている部屋の庭に面した戸の外から。
『だんなさん、林さま』と薄気味悪い声が聞こえてきました。
一瞬ぎょっとしましたが、その声のする戸を、こわごわと、わずかばかり開けました。
『あっしは、万五郎でごぜえます。お話する時間はございません。あのお二人はもう助からないと思います。このお女中は命には別状ございません、でも、お命を賊に狙われているようです。ここにおいて置くと危のうございます。どういたしましょう』
状況は、とっさに私には判断できました。今は、せめて小雪だけでも助けてやらねばと思い、万五郎親分に
『京に置いてはおけまい、今すぐにでも、お前の宮内へでも隠してくれないか』と頼んで見た。
『人の命に関わっていることです。どうにか致しましょう。なんとかなるでしょう』
と、親分。
それからどうなったのかは分りませんが、後々の風の便りでは、小雪はどうにか無事で、この宮内に生きているということを耳にして、安堵していたのです。
怪しむように、じろりと見下すような眼差をして、その憎々しさを、まだ、一杯に顔に表しながら、須香さまは、小雪の方にいざり寄って近づいて来られるのでした。
小雪のどう対処したらいいか分らないような困惑の色をお感じになったのかもしれません、横から、林さまが
「須香さん。まあ一杯どうですね」
と、ご自分の猪口を差し出されました。須香さんと呼ばれたそのお人は、ややあわてるように
「まあ、とんでもありません。私がお酌しなくてはならないのに、失礼しました」
と、冷え切っている徳利を両の手で、暖めるかでもしているようによっくりと捧げながら、林さまにお酌して差し上げられました。
「なあ、お須香さん。随分とご心配かけたね。・・・・あなたのご心配分らぬでもないが、どうしても、今日は、この小雪を奥様の前に引き出さねばならないわけがあってね。ごめんよ」
そして、林さまは、相変わらず膝に置かれていた両の手で持たれていた盃をゆっくりとお口になさいました。
「そうです。文月25日の夜です。京で高雅さまと、此度の琵琶湖疎水工事ご融資について細かな打ち合わせをしておりました。お側には新之助さんもお出ででした。何時もの例ですが、小雪も、勿論、私が呼んでおりました。しばらくして、別に特別なお話があったわけでもまく、新之助さんたちがいてもいなくても別に構わなかったのですが、高雅さまはどんな了見か知らないのですが、とにかく、この若い二人を、我々の話から故意に遠ざけられておしまいになられました。高雅さんの特別な計らいであったのかもしれませんな、あはっは・・」
この林さまの高笑いに、小雪はあの晩のことが今更のように甦ってくるのでした。
「また、今夜も新之助様とお二人だけでお話できる。よかった。さえのかみさまありがとう」
と、あの時の、ひそかなあまり期待もしてない、自分に置かれている身に対する、それでも小さな小さな誰にも言えない喜びみたいな物をひたひたと感じたように、今でも覚えています。
「しばらくお話をして、その後、別室の若い二人をお呼びになりました。『今晩はここにお泊りになって、明朝お帰りになっては』と言ったのですが、『山田が心配するから』とか何とか言われて、夜も大分更けた京の町に、新之助さんをお連れになってお帰りになりました。『小雪も、では、そこら辺りまで』と一緒に送り出しました。河内の玄関から3人を送り出して、ほんのいくばくもたってないと思いました。私の部屋に入ろうとした時、表のほうから、「ぎゃ」という声とともになにやらけたたましげな騒動の気配が耳に入ってきました。とっさにある種の胸騒ぎが私を覆い包みました。『天誅』とか何とかという甲高い天を突くような声も闇を通して辺りに響いていました。話には聴いたことがあったのですが、生まれて始めて聞く声です。一瞬、『何事もなければ』という思いに駆られました。
どのくらい時間が経ったでしょうか、しばらくして、辺りは元の静寂さに戻りました。
ばたばたと大勢の人達がその往来の辺りから足早に立ち去る気配もしていました。その時です。私の泊まっている部屋の庭に面した戸の外から。
『だんなさん、林さま』と薄気味悪い声が聞こえてきました。
一瞬ぎょっとしましたが、その声のする戸を、こわごわと、わずかばかり開けました。
『あっしは、万五郎でごぜえます。お話する時間はございません。あのお二人はもう助からないと思います。このお女中は命には別状ございません、でも、お命を賊に狙われているようです。ここにおいて置くと危のうございます。どういたしましょう』
状況は、とっさに私には判断できました。今は、せめて小雪だけでも助けてやらねばと思い、万五郎親分に
『京に置いてはおけまい、今すぐにでも、お前の宮内へでも隠してくれないか』と頼んで見た。
『人の命に関わっていることです。どうにか致しましょう。なんとかなるでしょう』
と、親分。
それからどうなったのかは分りませんが、後々の風の便りでは、小雪はどうにか無事で、この宮内に生きているということを耳にして、安堵していたのです。