岸部四郎さんが亡くなりました。私は1963年生まれなので、GSはギリギリ間に合ったくらい。ザ・タイガースの解散が1971年1月なので、もう小学校に入ってました。ただ、その頃はジュリーしか知らず、岸部四郎さんがメンバーだったと知ったのはずっとあとでした。
それで岸部さんの記憶というと、ラジカセを買って貰った頃にニッポン放送で「シローの気ままな旅」という番組を聞いてました。平日の夜の番組で、岸部さんの話と最新の曲のオンエアという構成で15分くらいの番組だったと思います。番組の最後に「シローの気ままな旅 お相手は岸部シロー、構成は旅嫌い、風呂嫌いの〇〇でした(名称失念)」というのを聞いて、ニヤッとした記憶あり。
なぜ覚えてるかというと、その番組で浅田美代子さんの「幸せの一番星」を録音し、そのあとに岸部さんが「なかなかええ曲ですね」と言った声がそのまま入っててそれをずっと聞いてたので。この曲は1974年3月発売なので、その頃に放送していた番組なのでしょう。ただし、岸部さんのWikiには情報がなく、いつからいつまでやってたかはわからず。
岸部さんと言えば、最初がザ・タイガースですがご本人のインタビューをテレビで見たのを思い出します。トッポこと加橋かつみさんが脱退し、急遽メンバーになったわけですが、当時アメリカにいたと。ご本人によると「アメリカに遊びに行ってたんですが急に呼ばれて、帰ってきたら空港で『タイガースのメンバーになるためにアメリカから帰ってきた』と騒がれたけど、トッポのファンの手前どんな顔したらいいかわからんから無表情で通した。」とのこと。
なお、本日のトップ画像は私の愛読書である瞳みのるさんの「ロング・グッバイのあとで」ですが、これにも岸部四郎さんの話があります。それによると、東京に出てきて一人の女性と知り合い、その女性がアメリカへ行くと追いかけて行ってしまったのだとか。淡々とした風貌からその情熱は信じられなかったとのことですが、遊びに行ってたわけでも仕事で行ってたわけでもないんですね。
ザ・タイガース加入後は、トークが面白かったのはよく知られている通り。この本によると、瞳みのるさんはトッポが脱退した時点でバンドを辞めたかったけど、大学で学ぶための資金を稼ぐため契約を一年更新し、無理やり続けていたそうです。その頃にはシローさんに1ステージに1回は漫談に近い話をさせており、そういう事情なので瞳さんは愉快ではなかったので表情は硬く、できるだけ笑わないようにしていたのが、シローさんの話が面白くついこらえきれず幾度となく笑ってしまったと。
また、吉田豪さんによる別のインタビューによると、グループの中で自分の立ち位置を確保するために、ステージで「ジュリーのちょっとええ話」とか銘打って人気者の沢田さんの楽屋での様子などを話題にして女性ファンの関心を惹いていたとか。そもそもが頭のいい人だったんですね。
ところで、瞳さんについては私は何年か前まで大きな誤解をしてました。前に聞いた話だと、「グループサウンズなんてアホばっかりだ」と言われて頭にきて、解散後慶應大学に入って学校の先生になったということでした。なので、元々が幼稚園とかから慶應にいて単に大学に戻っただけかと思ってたり。
が、考えてみればこの人も含めてタイガースは京都の出身なので、そんなわけはありません。瞳さんはお母さんが早くに亡くなって生い立ちはかなり複雑なのですが、小学生の頃から新聞配達をしながら経済的に自立を目指し高校は定時制へ。バンドでデビューしたものの、「お金は使えば減るけど勉強で身に着けたものは一生減らない」と一念発起し、タイガースの解散コンサートの打ち上げ会場からそのまま荷物を抱えて京都に車で帰り、1年間猛勉強して慶應大学に合格したと。その後ず~っとメンバーには会わず、自分の子供たちにも自分が元グループサウンズの人気者だったとはいわなかったとか。本当に凄い人です。この本は凄く面白いので、皆様もご家庭に一冊はお備え下さい。結構勉強になります。
それはそうとして、岸部さんについては「ルックルックこんにちは」とかは知らないのですが、「おこれ男だ」とか「西遊記」は見てました。なんだか不思議な人でしたが、いつからか知らないうちにす~っと入ってきた感じで。
最後の公の場だったというタイガースのライブはBSで見ました。瞳さんも入っての再結成ライブでしたが、車いすで出てきて「ジュリーのおかげや~」と言ってるのを見て、あれから何十年も経ってるのにバンド仲間っていいなと、ちょっとウルッとしてしまいました。
闘病中らしいというのは聞いてましたが、71歳というと世間一般ではまだまだ若いです。復帰して飄々と何かを語る姿は見られなくなりました。ご冥福をお祈りいたします。