さきの衆院選で、自公が圧勝した。
熱狂もない、なんの風も吹かない、それでいて歴史的な圧勝というこの結果に、なにか無気味な空気を感じとった人は世の中に少なくないと思う。ほかならぬ私もその一人だ。選挙速報の画面に映るいびつな数字の列に、これはひょっとするとなにかとてつもなくヤバイことが進んでるんじゃないか――という漠然とした不安をおぼえずにはいられなかった。まるで、なにもかもが底なしの沼に飲み込まれていくような……
そんな危機感から、ブログをはじめることにした。
内容は、個人的な時事評論だ。本来私はネット上での情報発信などといったことにまったく積極的でない人間なのだが、それをやらずにいられないぐらいの寒気をひしひしと感じているのである。
といっても、先に断っておくが、私は政治の専門家でもなんでもない。ゆえに、得られる情報は新聞やテレビのニュース、雑誌などのマスメディアで得られたものにほぼ限定され、政治家本人から直接聞いたというような裏話めいた情報をもっているわけでもなければ、ジャーナリストよろしく自ら取材した驚きのスクープがあるわけでもない。が、誰しもが知りうる事実に依拠しつつ、自分なりに思ったことを書くつもりだ。たまさかここを通りがかった方が、拙文をもって世の中について考える際の一助にしてくださればさいわいである。
さて問題の衆院選だが、戦後最低の投票率(52.66%)がこの結果に関わっているということは、つとに指摘されているところである。いくつかの媒体で報じられているとおり、今回の衆院選での自民党の得票総数は、惨敗を喫した’09年のそれよりも低い。にもかかわらず、’09年の選挙では120議席ほどだったのが、今回は300議席近くを獲得している。獲得した票は減っているのに、議席のほうはほとんど3倍近くに増えているわけである。これには、小選挙区制の特性にくわえて、得票“数”が減っていても分母(つまり、投票総数)が小さくなると得票“率”は上がるという現象が少なからず寄与している。小選挙区制の数字のトリックを自公の選挙協力がブーストさせるというこれまでのおなじみの構図を、歴史的低投票率がさらに後押ししたのだ。
では、なぜ投票率はこんなにも低くなってしまったのか?
投票率の長期的な低落傾向にはさまざまな理由が考えられるだろうが、今回の過去最低の投票率という数字(と、前回’12年衆院選の結果)にかぎってみれば、その背後にあるのは一種の“あきらめ”だと私は思っている。一度政権交代で民主党にやらせてみたが、ひどり有様だったじゃないか、というなかばトラウマまじりの諦観である。’09年衆院選で圧勝し順風を受けて離陸した民主党政権だったが、やがて乱気流に遭遇。つぎつぎとエンジンが停止し、乗員は脱出し、翼は奇妙にねじれ、最後は機体がぼろぼろになりながら、決死の特攻状態で解散。しかも、特攻してるのに相手はかすり傷一つ負っていない……という惨状だった。このあまりのていたらくに、政権交代なんてしても意味がない、しないほうがいい、というある種「政権交代アレルギー」のようなものが有権者の間にできてしまったのではないだろうか。野党を変に勝たせてまたあんなグダグダ状態になるぐらいだったら、もう自公政権でいいじゃない、なんか景気もいいみたいだし、というわけである。そのような「いいじゃないのぉ」の消極的支持と、少なからぬ有権者が失望から政治そのものへの無関心に陥り投票自体を放棄したことによる空前の低投票率が、自公を圧勝させた――と、私には思われる。それは前回の選挙でもある程度いえることだったが、今回の選挙結果からすると、その状況はいまも変わらず、しかも固定化しそうな雲行きだ。
安倍総理もそこを見透かしていて、はっきりいってなめてかかっている。
自公に対抗できる野党は目下存在しないし、今後もしばらくの間はできそうにない、という見通しがそこにはある。野党は林立していて、そのなかのいくつかがくっつこうとしても、うまくいかない。まるで上限が設定されてでもいるかのように、合流して百人規模の政党になろうとするとすぐに拒絶反応を起こして分裂する、あるいは、ほかの政党と合流しようとするとそれに反対するグループが離脱して結局総数はあまり変わらない……というような不毛なアクションを繰り返すばかり。いっぽう、有権者の側もかつての民主党政権の残念な顛末から新党不信に陥ったのか、新興政党への支持は広がらない。そして、支持が広がらないがゆえに新党は勢力を拡大できず、政権獲得の実現性がないと見られてなおさら伸び悩む――という負のスパイラルが生じる。野党が政権を獲得しようと思ったら国会議員が少なくとも240人ぐらいは必要なわけだが、これまでの彼らの離合集散っぷりをみていれば、そんな数字は到底達成できそうにないと誰しもが思うだろう。野党の政治的コンテスタビリティは今かぎりなくゼロに近づいており、したがって、与党は「選挙に負けるかも」という心配をまったくしなくていいのである。そして、それを背景にして政府は、原発再稼動、集団的自衛権、特定秘密保護法……といった国民の間で賛否が拮抗するよう問題でも自分たちの案をゴリ押しすることができる。つまりは、なめているのだ。今回の解散総選挙も、まさにその「なめてる」感の表れだった。どうせここで選挙やってもあんたたち何もできないでしょ、と挑発するかのような解散であり、その思惑通りに自公が完勝した。先述のとおり、得票数は減っていて、数字のからくりによる勝利でありながら、そしてそのことを彼ら自身承知していながら、「国民のみなさまの支持をいただくことができた」とぬけぬけと言い放ってみせた。今回のこの結果によって、与党は選挙に負ける心配は当分なさそうだという見通しを強め、今後さらにやりたい放題になっていくものと思われる。
この状況を、私は“合法的独裁体制”と呼びたい。
独裁政権はなぜ好き勝手なことができるのか? それは、何をやっても選挙で落とされる心配がないからだ。独裁者はまず選挙制度をいじり、それを行わせない、作らせない、骨抜きにするなどの手段を講じてから独裁にとりかかる。そしてそれと同じ状況が、この日本にもできつつあるというのが本稿の論旨だ。強い野党勢力の不在と、そこからくる有権者のあきらめと無関心によって、与党は何をやろうと選挙に負ける心配がない。そのために――選挙制度が存在しているにもかかわらず――独裁国家と同じ状況が生じているのだ。
ここで一つ断っておくが、私は別にいまの政府与党を“独裁体制”だなどといいたいわけではない。私は現政権に批判的ではあるが、“独裁体制”というのはいくらなんでも言いがかりだろう。投票率がどうあれ、結局のところ政府は選挙というまったくもって合法的なプロセスを通して作られるものだからだ。自公が衆院の3分の2を占める状態を許しているのは、対抗勢力を作れない野党であり、投票権をみすみす放棄する47%あまりの有権者である。そこが変わらなければ、少なくとも現行の選挙制度が続くかぎり、自公連立政権は勝ち続け、好き勝手な政策を進めるだろう。
私がここでいいたいのは、やはり政権交代の可能性はつねに一定のたしからしさで存在していなければならないということだ。そうでなければ、“事実上の独裁体制”がだらだらと続くことになる。独裁体制が腐敗を生み国家そのものを蝕んでいくというのは世界史上あまたの実例が示しているところで、れっきとした普通選挙制度を持ちながらそんな事態を許すとしたら、これは恥ずべきことといわねばならない。自公政権を脅かし、こいつはヤバイな、好き勝手なことはやってられないぞ――と思わせるだけの政治勢力を形成することが、いま求められている。
熱狂もない、なんの風も吹かない、それでいて歴史的な圧勝というこの結果に、なにか無気味な空気を感じとった人は世の中に少なくないと思う。ほかならぬ私もその一人だ。選挙速報の画面に映るいびつな数字の列に、これはひょっとするとなにかとてつもなくヤバイことが進んでるんじゃないか――という漠然とした不安をおぼえずにはいられなかった。まるで、なにもかもが底なしの沼に飲み込まれていくような……
そんな危機感から、ブログをはじめることにした。
内容は、個人的な時事評論だ。本来私はネット上での情報発信などといったことにまったく積極的でない人間なのだが、それをやらずにいられないぐらいの寒気をひしひしと感じているのである。
といっても、先に断っておくが、私は政治の専門家でもなんでもない。ゆえに、得られる情報は新聞やテレビのニュース、雑誌などのマスメディアで得られたものにほぼ限定され、政治家本人から直接聞いたというような裏話めいた情報をもっているわけでもなければ、ジャーナリストよろしく自ら取材した驚きのスクープがあるわけでもない。が、誰しもが知りうる事実に依拠しつつ、自分なりに思ったことを書くつもりだ。たまさかここを通りがかった方が、拙文をもって世の中について考える際の一助にしてくださればさいわいである。
さて問題の衆院選だが、戦後最低の投票率(52.66%)がこの結果に関わっているということは、つとに指摘されているところである。いくつかの媒体で報じられているとおり、今回の衆院選での自民党の得票総数は、惨敗を喫した’09年のそれよりも低い。にもかかわらず、’09年の選挙では120議席ほどだったのが、今回は300議席近くを獲得している。獲得した票は減っているのに、議席のほうはほとんど3倍近くに増えているわけである。これには、小選挙区制の特性にくわえて、得票“数”が減っていても分母(つまり、投票総数)が小さくなると得票“率”は上がるという現象が少なからず寄与している。小選挙区制の数字のトリックを自公の選挙協力がブーストさせるというこれまでのおなじみの構図を、歴史的低投票率がさらに後押ししたのだ。
では、なぜ投票率はこんなにも低くなってしまったのか?
投票率の長期的な低落傾向にはさまざまな理由が考えられるだろうが、今回の過去最低の投票率という数字(と、前回’12年衆院選の結果)にかぎってみれば、その背後にあるのは一種の“あきらめ”だと私は思っている。一度政権交代で民主党にやらせてみたが、ひどり有様だったじゃないか、というなかばトラウマまじりの諦観である。’09年衆院選で圧勝し順風を受けて離陸した民主党政権だったが、やがて乱気流に遭遇。つぎつぎとエンジンが停止し、乗員は脱出し、翼は奇妙にねじれ、最後は機体がぼろぼろになりながら、決死の特攻状態で解散。しかも、特攻してるのに相手はかすり傷一つ負っていない……という惨状だった。このあまりのていたらくに、政権交代なんてしても意味がない、しないほうがいい、というある種「政権交代アレルギー」のようなものが有権者の間にできてしまったのではないだろうか。野党を変に勝たせてまたあんなグダグダ状態になるぐらいだったら、もう自公政権でいいじゃない、なんか景気もいいみたいだし、というわけである。そのような「いいじゃないのぉ」の消極的支持と、少なからぬ有権者が失望から政治そのものへの無関心に陥り投票自体を放棄したことによる空前の低投票率が、自公を圧勝させた――と、私には思われる。それは前回の選挙でもある程度いえることだったが、今回の選挙結果からすると、その状況はいまも変わらず、しかも固定化しそうな雲行きだ。
安倍総理もそこを見透かしていて、はっきりいってなめてかかっている。
自公に対抗できる野党は目下存在しないし、今後もしばらくの間はできそうにない、という見通しがそこにはある。野党は林立していて、そのなかのいくつかがくっつこうとしても、うまくいかない。まるで上限が設定されてでもいるかのように、合流して百人規模の政党になろうとするとすぐに拒絶反応を起こして分裂する、あるいは、ほかの政党と合流しようとするとそれに反対するグループが離脱して結局総数はあまり変わらない……というような不毛なアクションを繰り返すばかり。いっぽう、有権者の側もかつての民主党政権の残念な顛末から新党不信に陥ったのか、新興政党への支持は広がらない。そして、支持が広がらないがゆえに新党は勢力を拡大できず、政権獲得の実現性がないと見られてなおさら伸び悩む――という負のスパイラルが生じる。野党が政権を獲得しようと思ったら国会議員が少なくとも240人ぐらいは必要なわけだが、これまでの彼らの離合集散っぷりをみていれば、そんな数字は到底達成できそうにないと誰しもが思うだろう。野党の政治的コンテスタビリティは今かぎりなくゼロに近づいており、したがって、与党は「選挙に負けるかも」という心配をまったくしなくていいのである。そして、それを背景にして政府は、原発再稼動、集団的自衛権、特定秘密保護法……といった国民の間で賛否が拮抗するよう問題でも自分たちの案をゴリ押しすることができる。つまりは、なめているのだ。今回の解散総選挙も、まさにその「なめてる」感の表れだった。どうせここで選挙やってもあんたたち何もできないでしょ、と挑発するかのような解散であり、その思惑通りに自公が完勝した。先述のとおり、得票数は減っていて、数字のからくりによる勝利でありながら、そしてそのことを彼ら自身承知していながら、「国民のみなさまの支持をいただくことができた」とぬけぬけと言い放ってみせた。今回のこの結果によって、与党は選挙に負ける心配は当分なさそうだという見通しを強め、今後さらにやりたい放題になっていくものと思われる。
この状況を、私は“合法的独裁体制”と呼びたい。
独裁政権はなぜ好き勝手なことができるのか? それは、何をやっても選挙で落とされる心配がないからだ。独裁者はまず選挙制度をいじり、それを行わせない、作らせない、骨抜きにするなどの手段を講じてから独裁にとりかかる。そしてそれと同じ状況が、この日本にもできつつあるというのが本稿の論旨だ。強い野党勢力の不在と、そこからくる有権者のあきらめと無関心によって、与党は何をやろうと選挙に負ける心配がない。そのために――選挙制度が存在しているにもかかわらず――独裁国家と同じ状況が生じているのだ。
ここで一つ断っておくが、私は別にいまの政府与党を“独裁体制”だなどといいたいわけではない。私は現政権に批判的ではあるが、“独裁体制”というのはいくらなんでも言いがかりだろう。投票率がどうあれ、結局のところ政府は選挙というまったくもって合法的なプロセスを通して作られるものだからだ。自公が衆院の3分の2を占める状態を許しているのは、対抗勢力を作れない野党であり、投票権をみすみす放棄する47%あまりの有権者である。そこが変わらなければ、少なくとも現行の選挙制度が続くかぎり、自公連立政権は勝ち続け、好き勝手な政策を進めるだろう。
私がここでいいたいのは、やはり政権交代の可能性はつねに一定のたしからしさで存在していなければならないということだ。そうでなければ、“事実上の独裁体制”がだらだらと続くことになる。独裁体制が腐敗を生み国家そのものを蝕んでいくというのは世界史上あまたの実例が示しているところで、れっきとした普通選挙制度を持ちながらそんな事態を許すとしたら、これは恥ずべきことといわねばならない。自公政権を脅かし、こいつはヤバイな、好き勝手なことはやってられないぞ――と思わせるだけの政治勢力を形成することが、いま求められている。