先日本ブログにコメントをいただいたので、それについて書きたい。
「フランス人は正しいか」という記事についてのものである。私の理解するところでは、コメントの要旨は大きく二点。ひとつは、「集団的自衛権を保有してはいるが行使はできない」というのは内閣法制局という内閣のなかの一機関の解釈に過ぎず、それが内閣の判断を拘束するのはおかしい、ということ。もうひとつは、集団的自衛権の行使はすでに最高裁によって認められている、というものである。
一点目に関しては、もっともな指摘である。たしかに、内閣法制局の解釈は、三権分立という話と直接の関係はない。その点に関しては、筆が滑ったというほかはない。少し言い訳をさせてもらえれば、そもそも「○○人は正しいか」というタイトルにするために「フランス人」-「モンテスキュー」-「三権分立」とやや無理なこじつけをしたためである。この思いつきに迂闊にも飛びついてしまったことは反省もしよう。
しかしながら、ここで反論もしておきたい。
行政と司法との関係でこそないかもしれないが、件の記事で書いた問題の本質は変わらないと考える。
内閣法制局というのは、内閣の行うことと憲法との整合性をチェックする機関である。なぜそのようなものが存在するかといえば、それは内閣が憲法に違反したことをしないためである。内閣は憲法に従わなければならないのだから、それを制度として担保するためのシステムが当然必要である。法制局は、その一つだ。いうなれば、「憲法」が内閣の内部に作っている監視用の出張所のようなものなのだ。ならば、その判断が内閣の行動をある程度拘束するのは当然であり、そこで数十年にわたって継承されてきた解釈は一定の重みを持つと考えるべきだ。そうでないのなら、法制局はなんのために存在しているのかという話にもなってくる。内閣法制局は、行政が暴走しないよう行政機構内部に作られたブレーキであって、それをもって“行政の暴走”というのはあたらない。
二点目は、「最高裁が集団的自衛権の行使を認めている」という点についてである。
私自身も書いたとおり、内閣の振る舞いが憲法に違反しているかどうかの判断は究極的には最高裁判所にゆだねられている。最高裁が認めていることを内閣法制局が否定しているのだとしたら、それはたしかに問題があるといえる。以下、この点についても考えてみたい。
件のコメントには「最高裁判所 田中耕太郎」の次のような意見が引用されている。
今日はもはや厳格な意味での自衛の観念は存在せず、自衛はすなわち「他衛」、他衛はすなわち自衛という関係があるのみである。従つて自国の防衛にしろ、他国の防衛への協力にしろ、各国はこれについて義務を負担しているものと認められるのである
これは、いわゆる“砂川判決”(1959年)に付された補足意見である。
自民党の高村正彦副総裁が、この判決をもって集団的事件の行使は憲法上も認めらているという論拠にしている、ということで脚光を浴びたものだが、はたして本当にこれで集団的自衛権の行使が容認されているといえるのだろうか。
結論からいえば、もちろんそのように主張する人もいるが、否定的な意見を述べる人もいる、ということになるだろう。
そもそも、この判決に関しては、当時の最高裁判所長官である田中耕太郎が判決前に米国側と密かに接触していたなど、裁判自体の公正性を疑問視する声もあるのだが、仮にその点を度外視するとしても、やはりこの補足意見をもって集団的自衛権の行使が認められているとすることには無理があるとの意見も多い。このあたりは、ネット上でちょっとググってみればいくらでもそうした意見を目にすることができるだろう。たとえば、昨年4月この問題に関して共同通信が配信した記事では(砂川判決は)「素直に読めば個別的自衛権の話と分かる。判決から集団的自衛権の行使が基礎付けられるとする学者は、知る限りではいない」という長谷部恭男東大教授(当時)の日本記者クラブでのコメントが紹介されている。
私個人の見解としても、この文章で「最高裁判所は集団的自衛権の行使を認めている」とするのは相当な論理の飛躍であるように思える。
また、田中耕太郎が米国側と密かに接触していたというのは近年米国での公文書公開によってあきらかになったことだそうだが、この司法判断の正当性を根底から覆しかねないような事実が発覚した現在でもその意見が有効性を持ちうるものなのか――という疑問もぬぐえない。また、この裁判は地裁から一足飛びに最高裁に跳躍上告されるという異例の展開をみせ、さらに、いわゆる“統治行為論”で一部憲法判断を回避しているなど、きわめて“政治的”なにおいがするものになっている。これらのことからして、“砂川判決”によって集団的自衛権の行使が容認されている、という論には、素直に肯くことはできない。
以上が、先日よせられたコメントに対する私の見解である。
「フランス人は正しいか」という記事についてのものである。私の理解するところでは、コメントの要旨は大きく二点。ひとつは、「集団的自衛権を保有してはいるが行使はできない」というのは内閣法制局という内閣のなかの一機関の解釈に過ぎず、それが内閣の判断を拘束するのはおかしい、ということ。もうひとつは、集団的自衛権の行使はすでに最高裁によって認められている、というものである。
一点目に関しては、もっともな指摘である。たしかに、内閣法制局の解釈は、三権分立という話と直接の関係はない。その点に関しては、筆が滑ったというほかはない。少し言い訳をさせてもらえれば、そもそも「○○人は正しいか」というタイトルにするために「フランス人」-「モンテスキュー」-「三権分立」とやや無理なこじつけをしたためである。この思いつきに迂闊にも飛びついてしまったことは反省もしよう。
しかしながら、ここで反論もしておきたい。
行政と司法との関係でこそないかもしれないが、件の記事で書いた問題の本質は変わらないと考える。
内閣法制局というのは、内閣の行うことと憲法との整合性をチェックする機関である。なぜそのようなものが存在するかといえば、それは内閣が憲法に違反したことをしないためである。内閣は憲法に従わなければならないのだから、それを制度として担保するためのシステムが当然必要である。法制局は、その一つだ。いうなれば、「憲法」が内閣の内部に作っている監視用の出張所のようなものなのだ。ならば、その判断が内閣の行動をある程度拘束するのは当然であり、そこで数十年にわたって継承されてきた解釈は一定の重みを持つと考えるべきだ。そうでないのなら、法制局はなんのために存在しているのかという話にもなってくる。内閣法制局は、行政が暴走しないよう行政機構内部に作られたブレーキであって、それをもって“行政の暴走”というのはあたらない。
二点目は、「最高裁が集団的自衛権の行使を認めている」という点についてである。
私自身も書いたとおり、内閣の振る舞いが憲法に違反しているかどうかの判断は究極的には最高裁判所にゆだねられている。最高裁が認めていることを内閣法制局が否定しているのだとしたら、それはたしかに問題があるといえる。以下、この点についても考えてみたい。
件のコメントには「最高裁判所 田中耕太郎」の次のような意見が引用されている。
今日はもはや厳格な意味での自衛の観念は存在せず、自衛はすなわち「他衛」、他衛はすなわち自衛という関係があるのみである。従つて自国の防衛にしろ、他国の防衛への協力にしろ、各国はこれについて義務を負担しているものと認められるのである
これは、いわゆる“砂川判決”(1959年)に付された補足意見である。
自民党の高村正彦副総裁が、この判決をもって集団的事件の行使は憲法上も認めらているという論拠にしている、ということで脚光を浴びたものだが、はたして本当にこれで集団的自衛権の行使が容認されているといえるのだろうか。
結論からいえば、もちろんそのように主張する人もいるが、否定的な意見を述べる人もいる、ということになるだろう。
そもそも、この判決に関しては、当時の最高裁判所長官である田中耕太郎が判決前に米国側と密かに接触していたなど、裁判自体の公正性を疑問視する声もあるのだが、仮にその点を度外視するとしても、やはりこの補足意見をもって集団的自衛権の行使が認められているとすることには無理があるとの意見も多い。このあたりは、ネット上でちょっとググってみればいくらでもそうした意見を目にすることができるだろう。たとえば、昨年4月この問題に関して共同通信が配信した記事では(砂川判決は)「素直に読めば個別的自衛権の話と分かる。判決から集団的自衛権の行使が基礎付けられるとする学者は、知る限りではいない」という長谷部恭男東大教授(当時)の日本記者クラブでのコメントが紹介されている。
私個人の見解としても、この文章で「最高裁判所は集団的自衛権の行使を認めている」とするのは相当な論理の飛躍であるように思える。
また、田中耕太郎が米国側と密かに接触していたというのは近年米国での公文書公開によってあきらかになったことだそうだが、この司法判断の正当性を根底から覆しかねないような事実が発覚した現在でもその意見が有効性を持ちうるものなのか――という疑問もぬぐえない。また、この裁判は地裁から一足飛びに最高裁に跳躍上告されるという異例の展開をみせ、さらに、いわゆる“統治行為論”で一部憲法判断を回避しているなど、きわめて“政治的”なにおいがするものになっている。これらのことからして、“砂川判決”によって集団的自衛権の行使が容認されている、という論には、素直に肯くことはできない。
以上が、先日よせられたコメントに対する私の見解である。