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「核の傘」という概念について(コメントへの回答)

2016-11-20 20:50:14 | 安全保障
 先日コメントをいただいたので、今回はそれに対する回答を書く。
 核抑止力に関する記事に対して sica さんという方からよせられたものである。当該コメントは、以下のとおり。


《勘違いしていますが、 核武装は敵からの核攻撃を抑止するためのものであり、もとより通常戦力での戦争を抑止することを目的としたものではありません》


 当該記事で私は、核抑止力によって戦争を抑止することができていないということを書いたのだが、それに対して、そもそも核抑止力は通常戦力での戦争を抑止することが目的ではない――つまり、話の出発点がそもそも間違っている、という指摘である。

 もしかしたらとんでもない考え違いをしていたのかと思って、私もあらためていろいろ調べてみた。
 その結果としては、「核抑止」という言葉は通常兵器の戦争を抑止するという意味でも使われている、というのが私の得た結論である。
 核抑止という言葉は、

 (1)核をもつことで核による攻撃を抑止する
 (2)核をもつことで戦争そのものを抑止する

 という二通りの意味をもっているのではないか。
 もっとも手軽に確認できる例としては、ウィキペディアではこの二通りの意味が掲載されている。ウィキの解説では、「核抑止は2つの意味を持つ。ひとつは国家間の戦争を抑止するというものであり、もうひとつは核兵器の使用を抑止するというものである」としていて、はっきりと2通りの用法があると明記している。
 ウィキ情報ではいい加減だと思われるかもしれないのでもう少しちゃんとした(※1)ものでいうと、たとえば私の手元にある講談社の『日本語大辞典』という辞典には「核抑止論」という見出し語があって「核軍事力の均衡が戦争を防止し、世界の平和維持に役立つという主張」という説明がついている。ここでは、(1)のように限定した意味ではとらえられていない。「戦争を防止し、世界の平和維持に役立つ」というのだから、その有効範囲に通常戦力もふくまれていると解釈して無理はあるまい。
 あるいは、高校の現代社会の副教材である東京書籍の『ダイナミックワイド現代社会』では、重要用語として「核抑止政策」という言葉が載っていて、「核兵器を保有し核兵器による報復力を持つことによって,対立する相手国に攻撃を思いとどまらせ,自国の安全を保持しようという政策(理論)」とある。ほかに、ネット上で閲覧できる例としてコトバンクに載っている『知恵蔵2015』の解説があるが、そこでは「攻撃を受けた場合には核兵器による反撃を行って耐えがたい損害を及ぼす意思と能力があることを、あらかじめ潜在的攻撃者に伝達することによって、攻撃を未然に思いとどまらせようとする考え方」と書かれている。いずれも、特に「核による攻撃」という限定はしておらず、(2)の意味であるように読める。

 たしかに辞典類で(1)の意味だけを紹介しているものもあり、ひょっとするとそちらの狭い意味での捉え方が学術的には主流なのかもしれない。しかし、核抑止力という考え方の源流をたどっていくと、そもそもは(2)のほうだろう。

 私の手元に、講談社の『クロニック世界全史』という本があるのだが、そこに「核の時代」とする文章が載っている。
 中山茂・神奈川大学教授の筆になるその文章には、以下のように書かれている。

 《「核兵器がある権力に独占されると,その権力は圧倒的な軍事力をもつことになり,その権力に抗する紛争はもはや不可能となる。核によって脅迫されれば,物理的にそれに抗する力はなく,服従を余儀なくされる。そして核の脅威・平和のもとに,未来永劫地球上に平和が保たれる」。これが核抑止の理論である。》

 これは、核がある一つの権力にのみ独占されている前提なのだから、あきらかに「核によって核攻撃を抑止する」という意味ではない。(2)の意味にしか解釈しようがない。
 もちろん、核保有国が複数存在している現状にこの理論はあてはまらないだろう。
 しかし、たとえば1950年代のアメリカでアイゼンハワー大統領が打ち出した「ニュールック戦略」は、核戦力を充実させて、むしろ通常戦力は削減しようとしていた。これは、「核によって通常戦力での攻撃も抑止できる」という考え方にもとづくものだろう。

 また、ネット上のさまざまな記事などをみても(2)の意味で使っている例はかなりある。
 そういう状況で私が(2)の意味で「核抑止」という言葉を使ったからといって「勘違いしていますが」ときめつけるのはいかがなものだろうか。
 先に引用した中山教授の定義にしたがえば、「核抑止論では、核抑止力は通常兵器による攻撃にも作用するとされているらしい」と考えるのはごく自然だろうし、「未来永劫地球上に」とまではいかずとも、核を保有した国はその圧倒的な軍事力のゆえにいかなる形であれ攻撃されることはない、ということになるはずだ。ほかにも上述したようなさまざまな議論を踏まえれば、「核武装は敵からの核攻撃を抑止するためのものであり、もとより通常戦力での戦争を抑止することを目的としたものではありません」というのはいささか一面的な捉え方ではないか(※2)。


 また、(1)の意味に限定しても、やはり核抑止力の効果は疑わしい。
 (1)の概念――ここでは仮に「狭義の核抑止理論」と呼ぶことにするが――その「狭義の核抑止理論」も、成立しないと私は考える。
 もとの記事でも書いたが、核兵器は「使えない兵器」なのである。そもそも使えないのだから、抑止する必要もない。実際に、第二次大戦後、核保有国が非核保有国と戦争した例はあるが、そういうときでも核兵器は使われなかった。核兵器は使えないからである。ゆえに、核抑止力というのは意味がないのだ。

 ついでにもうひとつ、今回いろいろ調べるうちに知った「核の傘」理論に対する重大な疑念について書いておきたい。
 それは、「拡大抑止」についての疑問である。
 「拡大抑止」というのは、「核保有国同士でなくとも、核をもつ国と同盟していれば核保有国と同じように抑止力が働いて核攻撃を受けない」という理論である。
 これがまさに、狭義の「核の傘」理論の核心だろう。この理屈でいくと、「日本は核兵器を持っていないが、日本が核攻撃を受けたら同盟国であるアメリカが核で報復するから、日本が核攻撃を受けることはない」ということになる。 
 この拡大抑止という考え方も、非常に疑わしい。
 なぜなら、相互確証破壊の考え方でいけば、アメリカが核保有国に攻撃をくわえた場合、自国が核で報復されるリスクを負うことになるからだ。自分が攻撃されたわけではないのだから、何もしなければ核で報復されることはない。なのに、わざわざ報復されるリスクを負って(というか、相互確証破壊の考え方にしたがえば100%報復を受ける前提になるはず)核攻撃をするのか、という疑問がある。そうなったときに現実にアメリカがどうするかはわからないが、問題は、攻撃する側はアメリカの行動を予想し、その予想に基づいてしか行動しえないということである。アメリカの本当の考えがどうであれ、攻撃する側は前述したような理屈に基づいて「アメリカが核で報復してくることはない」と判断するかもしれない。そうなると、「核の傘」は機能しないことになる。このような観点からみても、「核の傘」という考え方はきわめて胡散臭いのだ。


 せっかくなのでもう少し「核抑止」という言葉の定義の問題について書いておく。
 そもそも「核抑止」とか「核の傘」とかいう言葉を使っている人たちも、その厳密な意味までは考えず、漠然と使っているように私には思える。
 もちろん、専門家の間では、その理論的根拠とされる論考が存在しており、その具体的な中身についてさまざまな理論があるだろう(※3)。しかし、一般的にそういう詳細な議論まで把握して「核の傘」を口にしている人はそういないのではないか。
 辞典類の解説にもそれが表れているように思える。
 私はこの記事を書くにあたって、「核抑止」という言葉を説明する辞典や解説書の類をいくつか参照してみたのだが、その多くに、どうもいまひとつはっきりとしない印象をもった。複数の解説をあたってみても、核攻撃に限定しているのかいないのか、それともどちらの用法もあるのか、すっきりと明言していないのだ。こっちはそこを知りたいのに、細かく読み込んでもそこがはっきりしてこない。そういう意味では、最初に紹介したウィキの説明は例外的なものである。
 邪推かもしれないが、じつはこれらの解説を書いた人たちも、この点についてはっきりといいきるだけの根拠と自信をもっていなかったのではないだろうか。解説を書くにあたって「核抑止というのは核攻撃だけに限定された概念なのか?」という疑問をもち、いくら調べてもそれがはっきりしないので、注意深く言葉を選んでどちらにもとれるようなあいまいな書き方をしているのではないか――そんなふうにさえ感じられた。


 世の中では、そういうふうに、なんとなくそれらしい言葉が意味がはっきりしないままになんとなく使われるということがある。安全保障の分野では、特にその傾向が顕著であるようにも思える。

 たとえば、「民族浄化」という言葉がある。
 1990年代にユーゴ紛争で用いられて有名になった言葉だ。民族浄化――そう聞くと、なにかとてつもなく残虐で非人道的なことが行われているらしいという感じはする。しかし、具体的にどのような行為が民族浄化にあたるのかということを正確に説明できる人がいるだろうか。
 じつは、「民族浄化」という言葉は、そもそも明確な定義があるわけではないという。
 高木勝氏の著書『戦争広告代理店』で、「民族浄化」という言葉はユーゴ紛争におけるPR戦略のなかでセルビア勢力の残虐性を強調するためにPR会社が持ち出してきたという経緯が紹介されている。セルビア側を「悪」の存在に仕立て上げるために、なるべくおそろしいイメージをかもし出す言葉が“キャッチフレーズ”として引っ張り出され、大々的に宣伝された。そうして「民族浄化」という言葉が広く流布するようになり、それが具体的に何を指すのかよくわからないままになんとなく使われているのである。
 ネット上の辞典などで調べると、「民族浄化」という言葉にはいくつもの意味が紹介されている。
 もともと漠然としたとらえどころのない言葉なので、受け手の一人ひとりが「こういうことを指すのだろう」とさまざまに想像し、もともと明確な定義がないからその一つ一つが「そういう意味もあるのだろう」と受容され、結果としてさまざまな意味をもつようになったと考えられる(※4)。

 ここでもとの話に戻ると、「核の傘」というのも、実はそういうものなのではないか。
 核を手放したくない一部の大国が、「私たちの核によって平和が守られてるんですよ。だから私たちが核をもつことは許されるんですよ」とPRするために作り出した虚構の概念にすぎないのではないか。そうだとすれば、それが具体的に指す内容にブレが生じるのも理解できる。虚構の概念であり、そもそも漠然としていて中身がないから、各人が勝手な解釈をする。その結果、人によって解釈の違いが出てくる――そのように理解すれば、意味の混乱が生じていることも説明がつく。すなわち、その指し示す内容があいまいであるということそれ自体が、「核の傘」なるものが虚構の概念でしかないことの証拠といえるのではないか。



※1……私は今ではウィキペディアもそれなりにちゃんとした辞典だと思うが、世の中には「ウィキなんて信用できない」という人も多数いると思われるので


※2……いくつかの説明を読むと、「核保有が戦争を抑止する」というのも、核兵器がダイレクトに通常戦力の抑止となるわけではなくて、「核兵器が核の使用を抑止する→核戦争につながるような全面戦争はできない→全面戦争のような戦争は抑止される」というように解釈する場合もあるらしい。つまり、「核保有によって核攻撃が抑止される」という抑止力が連鎖的にもっと低レベルの戦争にまで波及していって、結果としては通常兵器での戦争も抑止されるというわけである。この考え方でも、間接的にせよ「核武装によって通常兵器での戦争を抑止できる」ということになるはずだ。


※3……今回調べるなかでそうした議論にも出くわしたが、それによれば、安全保障論のなかでも核抑止に懐疑的な見方は少なくないらしい。
 核抑止論を否定する立場の論者は、「ミサイル防衛」の重要性を説く。彼らの議論においては「ミサイル防衛」は核抑止と対立する考え方とみなされていて、ミサイル防衛を推進するということは、「核をもつことによって核攻撃を防ぐ」という狭義の核抑止論を――少なくとも部分的に――否定することになる。
 というのは、核抑止が機能しないからミサイル防衛が必要だと考えるわけだし、また、ミサイル防衛システムが高度に構築されていけば、「相互確証破壊」という狭義の核抑止理論の前提が崩れてしまうからだ(あくまでも核抑止論者から見て)。つまり、「核抑止」と「ミサイル防衛」は相互補完しあうものではなく、ある面では矛盾する思想なのである。
 にもかかわらず、日米安保信奉者は核抑止とミサイル防衛の両方を支持する人が少なくないようにみえる。このあたりからも、核抑止論のいい加減さ、合理性を欠いた“なんとなく”感が見えてくる。


※4……一応ことわっておくが、「民族浄化」と呼ばれている残虐行為を矮小化しようという意図はまったくない。どういう言葉で呼ばれようと、そのような残虐行為が許されないのはいうまでもないことである。