興味津々

日々思ったことを綴ります

娘の気持ち・母の気持ち・姑の気持ち・祖母の気持ち・孫の気持ち

2024年09月08日 | ひとりごと
1番楽なのは孫の立場だ
孫にはみんな甘いし、甘えておけば良い

どんな人でも息子を取られたような気持ちになるからねぇ
と結婚前に実家に来ていた着物屋さんが
暗に覚悟を勧めた、のは昔の話。

私が頭が悪いからいけないんだろうけど。
要するに周囲についていけない感。
で自信を持って発言出来ないから 信用失っている。
慰めの言葉にすがってる。自分に気を使ってもらっていると思い、こちらも気を使ってそれで上手く行っていることにしている。
で、後から違和感がじわじわと来て 後に怒っている自分に気づく。

一方母との関係は最悪の一途を辿るのみ。
気を使わない関係、全てをさらけ出した(と思い込んでる)関係は
決して良い関係じゃない。
母は私に自分をさらけ出していなかった。
母の認知に私の責任がどれだけあるのかはわからないが、今になって私はその責を負っているのだろうか、と感じる。

息子家族と出かけて夫と帰ってくると20回近くの切迫した感じの留守電が入っている。内容はこのところずっと同じ。
自分がたいへんな事になっている、すぐにでも来てくれないか、どうなっているのかわからない、お金もない、誰も来ない…。いくら説明してもいくら施設に行って話しても結局同じだ。ひとりで寂しい、頭がおかしくなっていく、どうしたら良いの?、の繰り返しでどうしようもない。自分で望んで入った施設にいることさえわからないでいる。泣き声で訴えられても電話に出たくないという気持ちになり、すぐには行けないと怒り声で言う自分にも自己嫌悪だ。
こんな母に育てられたから私はダメなんだと考えてしまう。

家が狭いために、息子夫婦は帰って来た際は決まった宿に泊まっている。当初はそれが楽だとも申し訳ないとも思っていた。小さな孫は確かに可愛いし、良くやっている、息子には優秀なもったいない程の嫁だ。息子と2人で協力しあって子育てしている、感動的でさえある。
ただ私がついていけないんだよ、はっきり言って。もどかしさの原因は自分にあるんだ。
誰かがリードして引っ張らないと進まない、だからリード役を引き受けてくれてる、それはわかる。
でもじわじわと後から あれれ?と思えてくる。

私は嫁の立場でいる期間が短かった。はっきりと自分がどうしたいのか言えない性格でもあり、自分の考えがしっかり持てないから流されてしまうのだ。嫌われるの恐さに相手が出るのをいつも待ってしまう。結果、却って理解してもらえず打ち解けられない。
夫と姑の(長い歴史に裏打ちされた、と夫は説明した)親密な感じの比較的テンポの早い会話に私はついていけなかった。
ついていけず、たっぷり寂しい思いをした。

現在はといえば、息子も夫もはっきりさっぱりしたお嫁のペースに半ば巻き込まれる感じで物事が進んで行く。私が話せば息子も嫁も無視はしない、けどどちらかと言えば置いていかれている。

思い返せば自身の友人関係だって似たようなものだ。

対等な協力し合える関係が築くことさえ出来れば、ずっと楽しく日々送れることだろうに。どの立場であろうとも。
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母のことが嫌いです

2024年08月11日 | ひとりごと
初盆のお参りの日を機会に母に一時帰宅してもらうことにした。
施設でどうしているのかと聞くと、あまり良いことは聞かない。大概はベッドに横たわり、スタッフに依存しがちだという。出来るはずの゙ことも、やってもらおうとしがちだと。夜中にお腹が空いたと看護師さん呼び出しのベルを押したり、トイレもさせてもらったり 等。

そんなことを聞かされ、さらに時間を伝えて迎えに行っているのになかなか来ない。車椅子に乗せられて、靴下も履かず杖も持たずメガネだけぶら下げて ようようやって来た。

帰宅してきても、その言動がいちいちに腹が立つ。まず先に鍵を開けて待ってくれている私の夫によそ行き挨拶、◯◯さんすみませんねぇ、って。汗をカキカキ迎えに行った私については当たり前だと思っているのか、待たせておいて、平気な顔で そうやったん?と帰ることを初めて聞くように言っていたのに。

そこからしてデタラメだ、と感じる。

お寺さんを待つ間は 友人に電話。
電話で話したら少しでも元気になるかと思えばこそなのに。
元に元気に話していたのに。

その友人への愚痴を私に話す。
厚かましい人で亡くなった弟をこき使った、こき使っておいて何の悔みやお礼も言わない、と。何で弟が母の友人にこき使われたことになったのか?私はその経緯を知らされていなかった。引越の手伝いをしたらしい。
ということは、母が友人が引越すから一緒に行ってくれ、と言ったのだろう。友人から息子さんに手伝ってくれ、なんて急に言うはずはない、母が友人に息子をアピールするために引き合わせたのだ。そうしておいて、感謝を述べない友人、恩を売れなくなった友人を悪く言っている。寂しい時に電話かけてくれる友人なんてそれだけでもありがたいのに。表面では親しげに話しておいて私に悪口を言う。
そういう母が嫌いだ。
自分の友人関係に子どもを巻き込む。
子どもは自立出来なくなる。私も弟も。

仏間を2階の私のかつての部屋に移されたことも腹立たしい。そうしておいて、2階には上がれないと言う。良く分からない仏壇の掃除やら、弟が布団引きっぱなしにしていた仏間の片付けやら掃除やら お寺さんが来る準備やら全て私にさせておいて 前回はさらに当座になってから、お寺さんのおしぼり持って来いだの襖は閉めろ、開けろ、と色々指示して来る。そしてお寺さんにいくら包むのかと聞いてもわからない、と答えなし。

今日は2階に上がる際に階段の最後の段を上がった後、動けない、と到着したお寺さんの前で どうにもこうにもならなくなった。上がってしまっているのに、私は下から拝んでおく、とか 手を引っ張ってくれと言っておいて引っ張るとイタイッと言う。体が動かないのではなく、ヒステリーのようになっているように感じる。そんな時に、母の言うようにお尻を押したり出来ない私に怒ってくる夫にもウンザリ。ともかくも欠点のある、時に私に冷たく感じる夫ではあるがこの夫がいないと私は前に進めない。依存しているのである。母はそれを知っていて、こんな(ダメな)娘だけれどもよろしく、と夫に媚びるように挨拶する。

施設のことも文句タラタラである。
1人で怖い、誰も助けに来ない、ご飯が少なくてお腹が空く、朝の5時にカーテン開けられる、体操も何にもしてくれない、新聞なんて来ない、そんなん嘘や、
とどこまでが真実なのか分からない愚痴を言った後、そんなこと言っているなんて言わんといてや、とトドメを刺す。

ポータブルトイレに関しても、歩けるのにわざわざ使っているように思える。ポータブルトイレを使った後起き出してきて、ブツブツ自分はおかしいとか何とか言いながら 母の寝ている間に買っておいたゼリーやらジュースを冷蔵庫から出して口に入れている。私はテレビを切ってその場を離れた。スプーンを出す気も起こらない。勝手にどうぞ、もう姿も顔も見たくないです、って感じになってしまう。母が足を引き摺りながら寝に行った気配をみて、食堂を見に行くと やっぱり食べた後のゼリーの入れ物は置きっぱなし、ティッシュの丸めたのがあちこちに、電灯もつけたままである。毎回ティッシュの片付けである。私がするのが当然のように。

こういうことだから私はどこに行っても他人に使われる立場になってしまうのか。

施設でポータブルトイレの処理や掃除をしている人に何かあげたら良いかな、と言う。例えばお金を小さな袋に入れて渡すとか、500円とか…。って。私はもうそういうのに付き合いたくない、それが常識なのかどうなのかも分からない。ヘルパーさんにちょっとしたものを買ってきて、とか、そういうのも色々過去にしたけど もう疲れた、渡しそびれたとか、そういうのも もうイヤなんだ。母の思いつきのような他人との付き合い方に巻き込まれるのは、害あれどほとんど利がない。
ほとんどが不愉快な思い出である。

そんな大嫌いな母なのに、どうか幸せの方向に向きなおって欲しいと真剣に願っている自分がいたりする。本当にどうしようもない。
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眠れぬ熱帯夜に

2024年07月06日 | ひとりごと
母が施設に入ることになり準備に集中すべき時が来た。
正直入ってくれるのを心待ちにしている。
寂しさもあるのだろうが、ほとんど自分勝手な電話をかけてきて度々 1回来てくれ、と何度も言って来る。毎日通っていても初めてのように「1回」、高圧的に感じて仕方がない。
来ればテーブルの上は毎度散らかり放題。何度言ってもティッシュの丸めたのをごみ箱に捨ててくれず、やっと捨てるのかと思いきやごみ箱周辺に多数落ちている。
片付けに困る私を嘲りたいのかと感じるほどだ。で だんだん怒鳴り体勢に入ってしまう。怒鳴った後は自己嫌悪。

この熱帯夜に寒い、と言ってすぐにクーラーを消す。そして何度も起き出すから翌日しんどい、と訴える。
泊まってクーラー一晩つけたら、ぐっすり眠っていた。
ほらみたことか、と翌日泊まると
バタンとガラス引戸を開ける大きな音に起こされた。
しばらくして動く様子がないので見に行くと、明かりをつけてリビングに座っている。クーラーの前で。
で、寒い、クーラー消して!と言う。
いや 30度超えてるよっ 点けたり消したりしない方が電力もかからないらしいし クーラーはつけて寝てくださいって言っていたから!とかなんとか怒りながら言うと寝に行ってくれた。

電灯を煌々と上からつけているから、注意すると
つけといてっ!とまた命令調。
スイッチどこへやったの?寝る時渡したのに、明るいと良く眠れないでしょっ。とスイッチを捜しだして豆電球にする。心配やねん、とか もちゃもちゃ言って眠った。 

生活が変わるのだから心配で眠れないのはわかる、けど
何かともかく 言ってることもやってることも堂々巡りでメチャクチャだ。

ほら、やっぱり。クーラーつけとく方が正解じゃん
と安心したのもつかの間
今度はパタンとポータブルトイレを使う音に起こされる。
その後 台所の冷蔵庫をさぐっている。
喉が乾いたのかぁ、
それはわかる。けど歩けるんなら、トイレに行ってくれ
何故ポータブル使うんだっ とまでは口には出さないが思ってしまう。
そして間仕切りのガラス戸はまたもや開けっ放し、冷気が逃げるやん、と思い閉めに行くと ダイニングの扇風機まで回しっぱなし。寒かったんじゃないのか、訳わからん。

お腹を出して寝ているからタオルケットをかけようとすると、今度は暑いっ!と。
熱あるの?と聞くと イヤ熱はないねん、とにかく暑くてたまらないから 冷やしたタオルか何か持って来てくれへん?
これも私には高圧的発言である。

クーラーついてるし、そこまでする必要あるんか
さっき寒いから消せって言ったじゃん!

何かにつけて 常にこんな調子なのだ

無事に施設生活が軌道に乗るまでの辛抱ってことか。
怒鳴らないように意識的に自分をコントロールする術を身に付けよって神様に言われてるのかも知れない。
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忘れるべき記憶

2024年06月27日 | ひとりごと
覚えていなくても良いことは忘れた方が良いやん、
とかつて母の元主治女医は、自身が記憶を失うことを自覚して辛くなっている母に寄り添うように言った。
まぁ覚えてんならんことは覚えてんとあかんけどな、
と小さく付け加えることも忘れなかったけれど。

色々なことがあって好きでなかった年老いた、しかし若く見える女医さんだったが この言葉は未だに私に刺さっている。実際母の昔の記憶の中に母の都合の悪いことは残っていないように見受けられる。

確かに覚えてなくても良いことは忘れた方が良いに決まってる。そして人は通常自然にそういう風に出来ているのだろう。

だが、私の頭の中は忘れるべきことばかりがぎっしり詰まっていて しっかり覚えておくべきことを弾いて追い出しているように思える。

忘れるべきことを覚えているのは、そういうことに次回なった場合 に備える自己防衛反応とも言えるし それほど自分が臆病とも言えるのかも知れない。

何しろ自分にはろくなことがない と思い続けるのはバカらしい。

今朝はその友人関係での悪い記憶に基づいたであろうイヤな夢で目覚めた。1人遅くなって誰も相手にしてくれず、旅行の乗り物に乗り損ねそうになっている というものだった。
登場したのは留年した最後の卒業学年の友人達だった。

昨日だったか朝のNHKで若い子の美容整形について報道していた。ある少女の例として美容整形の動機が
金魚のふん。この言葉をSNSで目にしたから、とのことだった。

私は中学の時、聞こえるように自分に発された 金魚のふん
という言葉を思い出した。それを言った子も自身どこかで傷ついていたのかも知れないし、私の方からむしろ嫌って避けていたのかも知れないと数年前の親友不参加で出席した同窓会後に自分から声をかけて少し付き合ったことがある。
でも 私にはやっぱり無理だった。
もちろん向こうから誘っても来ないし、私も彼女に限りむしろ自然消滅を望んでいる。
慎重な夫は最初からそういう危険タイプには決して近づこうとしない。自分には友人がほとんどいないからと自分から手を繋ぎに行った私は無駄なことをしたと思っている。

思えば 私はほとんどが 金魚のふん であったのではないか。陰でそう言われていたのだろうか。イヤな記憶が甦る。

再び近くに住むことになった小学校から高校までの同窓生。町医者の家庭に生まれ育って現在も夫は元大学病院の教授さん。私はだからと言って特別な子だとは思っていなかった。が確かに子どもの時から綺麗だったし、私はむしろ好きだったと思う。向こうから話しかけられることは稀で その稀がうれしくてたまらなかったような関係だったのかも知れない。
例のNHK番組で報道していたところの 今で言えば彼女は立派な「一軍」だったのだ、と合点が行った。私は相手にされない明らかな二軍の位置にいた、小学校の時は。中学に入れば比較的居心地良かったその二軍も消滅して行き場を失っていた。

彼女とは家庭科の実習で同じグループになったことがある。行きどころのない私はハンバーグの玉ねぎのみじん切りを休み時間にしておこう、と思った。彼女が通りかかった時に ありがとうの一言でも欲しかったんだろうと思う。通りかかった彼女に これくらい(の細かさ)で良いかな?と聞く私。彼女は もっと、と返してどこか自分の友人達の方へ行ってしまった。
もっとするのかなぁ、と素直に思う自分とどこか寂しく惨めな気持ちでいる自分が同居していた あの忘れるべき記憶がたまに甦る。
今も彼女の家の前を通れば、会って話してくれればさぞ楽しいだろうに、と切望する反面 全く嫌うほどに相手にされてない自分の現実が寂しい。

皆が嫌がる掃除時間に雑巾で一段ずつ階段拭いていたこともあったっけ。どうして私は嫌われるんやろうねって面と向かって親しくない同級生に言われたこともあった。

生涯私はその理由を生まれた家庭、とりわけ母のせいだと言い続けた。何かのせいにして逃げてばかりいた。母はまともに受け止めてばかりいたからおかしくなってしまったんじゃないか
。受け止めてもらった私も大いに歪んで羽ばたけなくなったのだけれど。

ただしいつか羽ばたいてやろうって夢想は60半ばの今でも持っている。
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どうすれば良いのかわからないことばかり

2024年02月03日 | ひとりごと
仏壇は2階にある
母は2階に上がることが出来ない
弟の祭壇は葬儀屋さんに1階に作ってもらった
忌明けのお参りは仏壇ではなく、祭壇でしてもらったのだがそれで良かったのか

仏壇で世話になった仏具屋さんに電話すると
すぐに名前でうちであることがわかった様子
祖父のことは代が代わっても聞き及んでいる、と言う  昔の大学教授と言えば何しろ特別ですから、と。この家は特に、と。

弟が言っていた 何しろ背負っているものが重すぎる 2人でいる時に泣いていた

立派な仏壇は魂が宿っているから
買えばとんでもない金額だとしても
売るわけにも行かず、却って処分代がかかる
簡単に考えず
このまま置いておいて、お寺さんには2階で拝んでもらって母用に別の小さなお仏壇を求め普段はそちらで拝まれたらどうですか、と言う

お仏壇ひとつを取ってもこの悩ましさ。

疎遠になりつつある遠い地の親戚からは
いきなり現金書留で高額の香典が送られてくる
母は何故知られているのか、といぶかる

というか
母自身全く混乱していて、未だに弟が何故亡くなったのか、葬式はしたのか、誰にも知らせてなかったよね、と同じ質問を繰り返す

その上交際好きであったから、様々な人が急に尋ねてきたり電話をかけてきて
母はテキトーに応対する

デイサービスには相変わらず行かない、と毎度言って困らせる

耳が聞こえなくなり、何度も聞き返される
で答えても覚えてくれない

どーすりゃイインダヨ、全く!
と泣いてばかりの母を怒鳴り
さらに母は混乱し
私はつい怒鳴る自分が恨めしい

最悪だ


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