人の輪に入っていけない…
私の生涯の悩みである
もうそれが自分の一種の欠陥だと思わなくてはならないのかも知れないけれど
人と上手くやっていけない
かと言って自分はそういう人間なんだと
諦めは残念ながらついていない
周りの人の中にあって
完全に孤独を楽しむ境地には
いくつになってもなれない
しかし 今日は偶然なのかも知れないけれど
不快な思いをしなくて良かった一日だった
声をかけてくれたパートさんも何人かいたし
私もニコニコしていられた
どうしてこんなに自分が生きにくいのか
と言えば
どうしたって自分の生い立ちのせいに
したくなる
私の生まれた時の家族は
祖父 祖母 父 母 父の弟 だった
私は初孫で周りは大人ばかりの状況だった
祖父は田舎出身の医学者で我が強く
お弟子さんが出入りした
父の弟 すなわち叔父が結婚してから
おかしくなってしまった と今も思う
祖父母は父と年齢の離れた叔父を可愛がっていた
父以上にお金もかけた
その時代に車も持っていたし
映画の撮影のマネみたいなこともやっていたらしい
父は祖父と同様に医学部の基礎に進み
叔父は臨床で整形外科医となった
父は長男だからと厳しく育てられた
ひとりで離れに住まわされていた
結婚してからも その家の中で普通に木の葉が舞うような
雨漏りのするような その離れで 母と暮らすことになった
今から思うと建物自体は価値がそれなりにあったのかも知れないし
お金もかけられたのだろうけれど
多分完全祖父の趣味だったと思う
木造六畳一間の離れで
続きの倉庫に父と母は机を並べた
そうして叔父が見合いで精神科医の叔母と結婚した時
母屋に祖父母と暮らした
これに父は反対したのだったが
また 出て行くとまで行ったのだが
結局 母は家族や親戚内で もめごとが起こるのを避け
祖父母の意のままに
そのような家族になってしまった
家庭内の金銭は全て祖母が握っていた
と母は後に私だけに言っていた
食事と風呂は母屋だった
離れは勉強と寝るだけの間だった
当時は薪で五右衛門風呂を焚いていたし
ご飯は釜だったし
母と叔母と祖母と3人の台所は
表面的には争いなどなかったものの
さぞ気も使ったろうと思う
叔母は
仕事を続けながら
次々にいとこ達を産み育てていたのだが
狭い母屋で、叔母もまた気を使っていただろう
と母は言っていたけれど
叔母に対する気持ちは
何ともいえず複雑なもので
私は常にそういった大人の気持ちを感じている子どもだった
また、母屋にはお手伝いさんと言っていた年輩女性がいたのだが
母屋に住むいとこ達の世話ばかりで
長男家族はどちらかと追いやられている風だったのが
私にとっては居心地が良くない家であった
その「追いやられている風」が顕著になってしまった
大きな原因のひとつが まだ若かった叔父の急死である
叔父がいないがために さらに祖母は
叔母家族の面倒を見なくては という使命感にかられた
私達家族も老いた祖母とたいへんな状況の叔母家族を放置して
他所へ引っ越すことができなくなってしまった
父は片道3時間かけて、転勤となった勤務先の大学まで通い続けた
そうして仕事を真面目にこなそうとする父は
2日に一度は学校に泊まった
母はそんな父にお弁当2日分を持たせていた
そんな中、私は他人との関係を上手く作れない子どもになってしまった
学校も地域の学校ではなかったし
帰宅しても、誰もいない離れでひとりで過ごすことが多かった
母は本当は祖父(母の父親)のような医者になりたかったのかも知れないが
医者になれば、結婚が遠のく との祖母(母の母親)の意見で
研究者になる方向で歩んだろう
当初は父と母とで共に大学に勤める家庭 家族を目指していたのだろう
けれど
祖父母とさらに叔母家族との同居で
そうして 色々な状況で勤めが続けられなくなってしまった
また 娘である私も次第に学校に不適応となった
勉強しない、出来ない子どもであることは
大いに家族の期待を裏切った
また裏切っていると自覚することでさらに自分も傷ついた
悲しいことに自分で 自分が勉強出来ない とは
なかなか認められなかった
弟も小学生で病気で手術、入院した
母にすれば、私の不適応は 思いもよらないことだった
しっかりしている と思い込んでいたようである
勉強が出来なかったりするのも不思議だったし
特に問題視もしていなかった
祖父は他の人へは厳しくとも私には優しかったし
周囲の尊敬を集める祖父は私の一種誇りだったし
好きであった
祖母もまた預けられて育った環境で
高等師範を出て、寮母や先生を勤めた人だった
尊敬もし、好きだった
多くを語らず孤高の人でもあったが
行く場所もなく寂しい時は祖母の所に甘えに行った
叔父も叔母ももちろん一生懸命に生きた人である
父も母もそうだ
誰も悪くないのに
幸せな方向へ 歯車は回らなかった
平凡で単純な幸せを手に入れられなかった
常にある種の「生きにくさ」を感じる人生を歩いている
生まれた時の環境から
長い間 大人の中で中心的存在であったのも原因して
子どもの集団に入れなかった
些細なことで傷つき
一方で自分が知らず知らずに人を傷つけていたことも
わからなかったのかも知れない
いじめられる方が悪い って本当だろうか
何故かいつも「いじめられる方」に回ってしまう
周囲の人達が自分を傷つける言動をしていく
不満を述べると
その原因が どこか自分の中にある とは思われないんですかっ?
ってつい去年くらいにもある店の店長に言われたけれど
私はとてもそういう言葉に苦しめられる
そういった状況から抜け出せるのは
現実逃避
もし私がこのような特殊な家庭で生まれなかったら
田舎の農家に生まれたら どうだったろう
あるいは職人の家庭に生まれて跡継ぎとして生きている というのも良かったろうに
両親が家を出ていてくれたら…
しかし それはないものねだり
こうして 能力がないなりに大学まで出させてもらい
他から比して、考え方の筋道にそれ程間違いはないはずだ
常識がないんじゃないですか?
と言われた経験もあるけれど
言われた時にはクヨクヨクヨクヨ
眠れない日が続いて
泣いてばかりいたけれど
そういうことを言うヤツの方が 常識がない ってものである
考えたら 私の方も
言い返せないのが悔しいから クヨクヨしているだけだ
両親は祖父母の借金を背負うなど色々あったようだが
私には
お金の苦労は確かにない
それを有難がらなければいけないのだろうけれど
また親戚の中に戦争を体験した人もいなければ
後ろ暗い人1人いないのも 誇れる人達ばかりなのも
きっと他人から見れば恵まれているのだろうけれど
人との交わりが上手く持てない という苦しみはイヤと言うほど経験した
父も母も 若い時の私の悩みに付き合ってくれた
そうしてきっと寿命を縮めてしまったに違いない
勉強せえ と言う父に反発ばかりしていたけれど
そうだ こんなことで悩むのは
常に勉強から逃げているからなのである
勉強は自分を救う
それをしなかった、できなかった理由を
また 放置された自分 のせい にしたくなるけれど
「生きていくための武器」は逃げずにガムシャラに
結局自分で何とか努力して身につけるしかないのである
私の生涯の悩みである
もうそれが自分の一種の欠陥だと思わなくてはならないのかも知れないけれど
人と上手くやっていけない
かと言って自分はそういう人間なんだと
諦めは残念ながらついていない
周りの人の中にあって
完全に孤独を楽しむ境地には
いくつになってもなれない
しかし 今日は偶然なのかも知れないけれど
不快な思いをしなくて良かった一日だった
声をかけてくれたパートさんも何人かいたし
私もニコニコしていられた
どうしてこんなに自分が生きにくいのか
と言えば
どうしたって自分の生い立ちのせいに
したくなる
私の生まれた時の家族は
祖父 祖母 父 母 父の弟 だった
私は初孫で周りは大人ばかりの状況だった
祖父は田舎出身の医学者で我が強く
お弟子さんが出入りした
父の弟 すなわち叔父が結婚してから
おかしくなってしまった と今も思う
祖父母は父と年齢の離れた叔父を可愛がっていた
父以上にお金もかけた
その時代に車も持っていたし
映画の撮影のマネみたいなこともやっていたらしい
父は祖父と同様に医学部の基礎に進み
叔父は臨床で整形外科医となった
父は長男だからと厳しく育てられた
ひとりで離れに住まわされていた
結婚してからも その家の中で普通に木の葉が舞うような
雨漏りのするような その離れで 母と暮らすことになった
今から思うと建物自体は価値がそれなりにあったのかも知れないし
お金もかけられたのだろうけれど
多分完全祖父の趣味だったと思う
木造六畳一間の離れで
続きの倉庫に父と母は机を並べた
そうして叔父が見合いで精神科医の叔母と結婚した時
母屋に祖父母と暮らした
これに父は反対したのだったが
また 出て行くとまで行ったのだが
結局 母は家族や親戚内で もめごとが起こるのを避け
祖父母の意のままに
そのような家族になってしまった
家庭内の金銭は全て祖母が握っていた
と母は後に私だけに言っていた
食事と風呂は母屋だった
離れは勉強と寝るだけの間だった
当時は薪で五右衛門風呂を焚いていたし
ご飯は釜だったし
母と叔母と祖母と3人の台所は
表面的には争いなどなかったものの
さぞ気も使ったろうと思う
叔母は
仕事を続けながら
次々にいとこ達を産み育てていたのだが
狭い母屋で、叔母もまた気を使っていただろう
と母は言っていたけれど
叔母に対する気持ちは
何ともいえず複雑なもので
私は常にそういった大人の気持ちを感じている子どもだった
また、母屋にはお手伝いさんと言っていた年輩女性がいたのだが
母屋に住むいとこ達の世話ばかりで
長男家族はどちらかと追いやられている風だったのが
私にとっては居心地が良くない家であった
その「追いやられている風」が顕著になってしまった
大きな原因のひとつが まだ若かった叔父の急死である
叔父がいないがために さらに祖母は
叔母家族の面倒を見なくては という使命感にかられた
私達家族も老いた祖母とたいへんな状況の叔母家族を放置して
他所へ引っ越すことができなくなってしまった
父は片道3時間かけて、転勤となった勤務先の大学まで通い続けた
そうして仕事を真面目にこなそうとする父は
2日に一度は学校に泊まった
母はそんな父にお弁当2日分を持たせていた
そんな中、私は他人との関係を上手く作れない子どもになってしまった
学校も地域の学校ではなかったし
帰宅しても、誰もいない離れでひとりで過ごすことが多かった
母は本当は祖父(母の父親)のような医者になりたかったのかも知れないが
医者になれば、結婚が遠のく との祖母(母の母親)の意見で
研究者になる方向で歩んだろう
当初は父と母とで共に大学に勤める家庭 家族を目指していたのだろう
けれど
祖父母とさらに叔母家族との同居で
そうして 色々な状況で勤めが続けられなくなってしまった
また 娘である私も次第に学校に不適応となった
勉強しない、出来ない子どもであることは
大いに家族の期待を裏切った
また裏切っていると自覚することでさらに自分も傷ついた
悲しいことに自分で 自分が勉強出来ない とは
なかなか認められなかった
弟も小学生で病気で手術、入院した
母にすれば、私の不適応は 思いもよらないことだった
しっかりしている と思い込んでいたようである
勉強が出来なかったりするのも不思議だったし
特に問題視もしていなかった
祖父は他の人へは厳しくとも私には優しかったし
周囲の尊敬を集める祖父は私の一種誇りだったし
好きであった
祖母もまた預けられて育った環境で
高等師範を出て、寮母や先生を勤めた人だった
尊敬もし、好きだった
多くを語らず孤高の人でもあったが
行く場所もなく寂しい時は祖母の所に甘えに行った
叔父も叔母ももちろん一生懸命に生きた人である
父も母もそうだ
誰も悪くないのに
幸せな方向へ 歯車は回らなかった
平凡で単純な幸せを手に入れられなかった
常にある種の「生きにくさ」を感じる人生を歩いている
生まれた時の環境から
長い間 大人の中で中心的存在であったのも原因して
子どもの集団に入れなかった
些細なことで傷つき
一方で自分が知らず知らずに人を傷つけていたことも
わからなかったのかも知れない
いじめられる方が悪い って本当だろうか
何故かいつも「いじめられる方」に回ってしまう
周囲の人達が自分を傷つける言動をしていく
不満を述べると
その原因が どこか自分の中にある とは思われないんですかっ?
ってつい去年くらいにもある店の店長に言われたけれど
私はとてもそういう言葉に苦しめられる
そういった状況から抜け出せるのは
現実逃避
もし私がこのような特殊な家庭で生まれなかったら
田舎の農家に生まれたら どうだったろう
あるいは職人の家庭に生まれて跡継ぎとして生きている というのも良かったろうに
両親が家を出ていてくれたら…
しかし それはないものねだり
こうして 能力がないなりに大学まで出させてもらい
他から比して、考え方の筋道にそれ程間違いはないはずだ
常識がないんじゃないですか?
と言われた経験もあるけれど
言われた時にはクヨクヨクヨクヨ
眠れない日が続いて
泣いてばかりいたけれど
そういうことを言うヤツの方が 常識がない ってものである
考えたら 私の方も
言い返せないのが悔しいから クヨクヨしているだけだ
両親は祖父母の借金を背負うなど色々あったようだが
私には
お金の苦労は確かにない
それを有難がらなければいけないのだろうけれど
また親戚の中に戦争を体験した人もいなければ
後ろ暗い人1人いないのも 誇れる人達ばかりなのも
きっと他人から見れば恵まれているのだろうけれど
人との交わりが上手く持てない という苦しみはイヤと言うほど経験した
父も母も 若い時の私の悩みに付き合ってくれた
そうしてきっと寿命を縮めてしまったに違いない
勉強せえ と言う父に反発ばかりしていたけれど
そうだ こんなことで悩むのは
常に勉強から逃げているからなのである
勉強は自分を救う
それをしなかった、できなかった理由を
また 放置された自分 のせい にしたくなるけれど
「生きていくための武器」は逃げずにガムシャラに
結局自分で何とか努力して身につけるしかないのである