興味津々

日々思ったことを綴ります

忘れるべき記憶

2024年06月27日 | ひとりごと
覚えていなくても良いことは忘れた方が良いやん、
とかつて母の元主治女医は、自身が記憶を失うことを自覚して辛くなっている母に寄り添うように言った。
まぁ覚えてんならんことは覚えてんとあかんけどな、
と小さく付け加えることも忘れなかったけれど。

色々なことがあって好きでなかった年老いた、しかし若く見える女医さんだったが この言葉は未だに私に刺さっている。実際母の昔の記憶の中に母の都合の悪いことは残っていないように見受けられる。

確かに覚えてなくても良いことは忘れた方が良いに決まってる。そして人は通常自然にそういう風に出来ているのだろう。

だが、私の頭の中は忘れるべきことばかりがぎっしり詰まっていて しっかり覚えておくべきことを弾いて追い出しているように思える。

忘れるべきことを覚えているのは、そういうことに次回なった場合 に備える自己防衛反応とも言えるし それほど自分が臆病とも言えるのかも知れない。

何しろ自分にはろくなことがない と思い続けるのはバカらしい。

今朝はその友人関係での悪い記憶に基づいたであろうイヤな夢で目覚めた。1人遅くなって誰も相手にしてくれず、旅行の乗り物に乗り損ねそうになっている というものだった。
登場したのは留年した最後の卒業学年の友人達だった。

昨日だったか朝のNHKで若い子の美容整形について報道していた。ある少女の例として美容整形の動機が
金魚のふん。この言葉をSNSで目にしたから、とのことだった。

私は中学の時、聞こえるように自分に発された 金魚のふん
という言葉を思い出した。それを言った子も自身どこかで傷ついていたのかも知れないし、私の方からむしろ嫌って避けていたのかも知れないと数年前の親友不参加で出席した同窓会後に自分から声をかけて少し付き合ったことがある。
でも 私にはやっぱり無理だった。
もちろん向こうから誘っても来ないし、私も彼女に限りむしろ自然消滅を望んでいる。
慎重な夫は最初からそういう危険タイプには決して近づこうとしない。自分には友人がほとんどいないからと自分から手を繋ぎに行った私は無駄なことをしたと思っている。

思えば 私はほとんどが 金魚のふん であったのではないか。陰でそう言われていたのだろうか。イヤな記憶が甦る。

再び近くに住むことになった小学校から高校までの同窓生。町医者の家庭に生まれ育って現在も夫は元大学病院の教授さん。私はだからと言って特別な子だとは思っていなかった。が確かに子どもの時から綺麗だったし、私はむしろ好きだったと思う。向こうから話しかけられることは稀で その稀がうれしくてたまらなかったような関係だったのかも知れない。
例のNHK番組で報道していたところの 今で言えば彼女は立派な「一軍」だったのだ、と合点が行った。私は相手にされない明らかな二軍の位置にいた、小学校の時は。中学に入れば比較的居心地良かったその二軍も消滅して行き場を失っていた。

彼女とは家庭科の実習で同じグループになったことがある。行きどころのない私はハンバーグの玉ねぎのみじん切りを休み時間にしておこう、と思った。彼女が通りかかった時に ありがとうの一言でも欲しかったんだろうと思う。通りかかった彼女に これくらい(の細かさ)で良いかな?と聞く私。彼女は もっと、と返してどこか自分の友人達の方へ行ってしまった。
もっとするのかなぁ、と素直に思う自分とどこか寂しく惨めな気持ちでいる自分が同居していた あの忘れるべき記憶がたまに甦る。
今も彼女の家の前を通れば、会って話してくれればさぞ楽しいだろうに、と切望する反面 全く嫌うほどに相手にされてない自分の現実が寂しい。

皆が嫌がる掃除時間に雑巾で一段ずつ階段拭いていたこともあったっけ。どうして私は嫌われるんやろうねって面と向かって親しくない同級生に言われたこともあった。

生涯私はその理由を生まれた家庭、とりわけ母のせいだと言い続けた。何かのせいにして逃げてばかりいた。母はまともに受け止めてばかりいたからおかしくなってしまったんじゃないか
。受け止めてもらった私も大いに歪んで羽ばたけなくなったのだけれど。

ただしいつか羽ばたいてやろうって夢想は60半ばの今でも持っている。
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