親爺は日本に帰郷中、福島の南相馬市にて震災の被災地復興事業の一環として放射能除染に関わる放射能測定業務にて6カ月の間働きました。
何故かと申しますと、2011年3月11日に起こった東日本大震災をブルキナファソで知り、その後ニュースで流れてくる郷土の悲惨な有様に驚愕するとともに、対岸で見ている自分が卑怯者に思え、日本に帰った時には何が何でも被災地で復興に関わりたいと思ったからです。
幸いにも福島で雇われ会社の寮に住むこととなりました。
寮は個室で5部屋、各部屋は八畳ほどのワンルーム、新築で白い壁に囲まれた室内には木製のベッドやテレビ、冷蔵庫、電子レンジ、調理グリルの付いた流し台などがあり一人住まいには至れり尽くせりです。
親爺は毎朝4時に起床し、弁当を作り6時に同僚と一緒に事務所に向かいます。
それから測定の道具を持って各2名一組で軽ワゴン車に乗り込み現場事務所へ。
現場事務所には共同企業体(JV)や除染関連業者の事務所があり約1,000人が集まり朝礼を行い周知事項の確認をします。
8時になると各業者は作業現場へと散っていきます。
私の仕事は定点にある測定箇所の放射線量を図る仕事です。
計測器を2つ肩に下げて測定点の線量を計り読み上げ、それを記録します。
1日に約80か所の家や農地、山林、道路等の測定を行います。
親爺は仕事を始める前は単純作業で力仕事でもなくこんなに簡単な作業で給料を頂いてよいのだろうかと高を括っておりました。
それが始まってみると家の周りには雑草が生え、農地は草が生え、でこぼこで歩きにくく、山林は崖があり木や篠竹が生い茂りという状況でなかなか容易に測定できません。
1日に歩く距離は6キロ程度で、測定するときにはしゃがみこんで測定しますので1日80回のスクワットをすることになります。計測器は3キロほどの重さでマスクとヘルメット、そして鉄板の付いた重い長靴を履くと体にかなりの負担となります。
還暦を過ぎた親爺は、始めのころは筋肉痛で体が痛くて、はたして足腰が持ちこたえてくれるのかと心配になりました。
そして1週間が過ぎ、親爺はだんだん仕事に慣れてくるに従い頑張る意欲もわいてきたのです。
仕事の同僚も皆よい人たちで始めは年配の私を気遣ってくれていましたが、比較的体力がある爺だと解かると「ベンさん(私の愛称)だけ一人で残業ね。」などと悪態を突かれるようにもなりました。
時々は寮の一室で4~5人の同僚と飲む機会などもあり、ご多分に漏れず愚痴を言いながらも皆の気持ちが打ちとけ合い、日ごろの疲れをいやす一瞬でもありました。
6カ月がたち私が仕事を離れることを知った同僚の人たちが、こんな私の為に送別会までしてくれてブルキナファソでも頑張ってと励ましてくれたことは、何にも例えようがない幸せです。
以前ブルキナファソで感じた心境を癒せた今思うと本当に福島に行ってよかった。
これが本音です。
被災地では被災した人、復興の仕事をする人がいて、そしてそれぞれの思惑があり、それぞれに人生があり、そして未来があります。
路は遠く険しいのかもしれませんが、ただ一つ言えるのは皆懸命に生きていることです。
復興が終われば被災地にまた人や家族が戻ってくるのでしょうか。
復興が終わればそれに携わる人たちはどこへ行くのでしょう。
ある農家の老夫婦が言ったことが今でも耳に焼き付いています。
「子供夫婦や孫は遠くの町に避難してもう戻らないと言っているが、私たちは先祖から受け継いでいるこの地を離れることはできない。だから毎日家に生えた草だけでも取ろうと来ているのだよ。」
このような老婆心(老爺心?)を抱く私もこれから何をするのでしょうか。
「自求自捨の心」は自分で求め自分で捨てること。
自ら求めること。しかし何もかも求めていてばかりいると何時かその重さに押しつぶされてしまう。
だから捨てるものは自ら潔く捨てることが大切で、その瞬間に次の展開が始まる。
これはブルキナファソから学んだことかもしれません。
最後に私を受け入れてくれた会社、そして毎日どんなに暑くても寒くても自分の足で歩きまわり頑張っている皆様。
どうも有り難うございました。
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