毘盧洞に続いて
父母恩重経変相(ぶもおんじゅうきょうへんそう)。
父母恩重経変相は高さ7m、幅14.5m。
南宋代(1174-1252年)のもので、
子供を育てる父母の恩を子宝を祈願する場面から
11シーンで現している。
「孝」という儒教的思想が仏教に混じったのは
初唐の頃らしい。
身近な思想を含めた方が布教し易かったのか。
変相とは、仏教の浄土や地獄を
ビジュアル的に表したものらしい。
毘盧洞に続いて
父母恩重経変相(ぶもおんじゅうきょうへんそう)。
父母恩重経変相は高さ7m、幅14.5m。
南宋代(1174-1252年)のもので、
子供を育てる父母の恩を子宝を祈願する場面から
11シーンで現している。
「孝」という儒教的思想が仏教に混じったのは
初唐の頃らしい。
身近な思想を含めた方が布教し易かったのか。
変相とは、仏教の浄土や地獄を
ビジュアル的に表したものらしい。
孔雀明王の隣が毘盧洞(びるどう)。
入口の上部には「毘盧道場」とある。
毘盧洞は高さ6.9m、幅8m、奥行5m。
大仏湾にある石窟の一つで、
窟内には287の仏が現存しているらしい。
▼入口左脇の菩薩
窟中央の塔亭には大日如来説法像がある。
▼大日如来
周囲の壁に穿たれた仏は、大日如来の説法に
聞き入っている。
内部の仏は結構色が残っている。
以前は煌びやかな窟だったんでしょうねぇ。
入口の上には飛天。
大仏湾の窟はここの他、円覚洞(えんかくどう)があり、
そちらの方が広くて素晴らしそうだが、
この年は改装中で見学できなかった。
釈迦の頭の左側には九龍浴太子図がある。
九龍浴太子図はお釈迦様が生まれた時に、
その沐浴の為に、天から9匹の金龍が降りてきた
と言う話が元になっている。
インドでは九匹の蛇らしいが、中国では蛇の印象が
悪いので、龍に置き換えられたそうだ。
龍の下では赤ん坊のお釈迦様が手を合わせて
水に打たれている。まるで滝行…。
九龍浴太子図に続いて孔雀明王。
孔雀は害虫や毒蛇を食べることから神格化され
孔雀明王は「災厄や苦痛を取り除く」功徳がある
とされる。
この像は孔雀の首が蛇に見えて、説明を見るまでは
何やら判らなかった(笑)。
良く見ると孔雀の羽がある。
千手観音の社殿を出て右側には
第11号龕「釈迦牟尼涅槃図」がある。
仏龕(ぶつがん)の幅32m、高さ6.8m。
上半身を露出させた釈迦牟尼像が頭を北、
顔を西に向けて横たわっている。
仏前には、二十数人の弟子と菩薩、
護法(神霊)などの像が並んでいる。
仏の下半身を彫らないことで
無限の広がりを表しているということだ。
顔を大きく彫りすぎた、ということでは
ないらしい(笑)。
▼第11号龕を上から見るとこんな感じ
華厳三聖像の先は社殿に覆われた千手観音像。
ここ宝頂山の千手観音像は縦8m、横12m。
世界最大で、孔雀の羽のように広げた手は
無限の救済を意味するらしい。
ここの千手観音は830の腕を持つという。
近年修復されて、すっかり綺麗になったが
修復過程で、120年前、300年前、500年前等、
過去8回に渡って修復されていた可能性が
考えられるらしい。
金箔が8枚重なっている部分があったことから
判ったそうだ。
昔の金箔も使える物は再利用して、
800年の深みある色を出しているとか。
社殿に覆われた暗い中、圧倒されるような輝きが
目に飛び込んでくる。
中国人の好きそうな感じだよね〜。
うーん。ありがたい感じがする。
けど、ついさっき見た普賢菩薩のが好きだな。
続いて、華厳三聖像。
仏龕の高さ8.2m、幅15.5m、奥行2m、
南宋の淳熙〜淳祐年間(1174〜1252年)に造られた。
手前から、文殊菩薩、毘盧舎那仏、普賢菩薩。
三像の高さは7m。
▼文殊菩薩
▼毘盧舎那仏
普賢菩薩のお顔は一際優しく綺麗だった。
峨嵋山が近いからか、
四川は普賢菩薩推しな感じがする(笑)。
▼普賢菩薩
過去の経験でいうと、
こちら(↑)の方が文殊菩薩の雰囲気。
普賢菩薩の隣には塔柱がある。
仏の足下では鬼(?)が支えている。
続いて六道輪廻図。
密教はインドからチベットと中国(漢民族)に伝わり発展した。
中国ではチベットに伝わった密教を蔵密、
漢民族に伝わった密教を漢密という。
ついでにいうと空海が日本に広めた密教は東密。
唐の武宗(840〜846年)が仏教を弾圧した為、
華北では密教がほとんど途絶え、信仰は地下に潜む。
唐末から宋にかけて中央の影響が薄い
四川盆地の大足一帯で漢密が発展したという。
大仏湾は当時の状態が完全に揃った漢密道場だそうだ。
へーーーーっ。
▼六道輪廻図
密教は曼陀羅(マンダラ)を使い教義を説くそうだ。
曼陀羅は「悟りを得た場所、道場」を意味する。
へーーーーっ。
六道輪廻図の中心に居る仏は大日如来らしい。
牛のような鼻をした輪廻図を咥えた鬼が
無常大鬼。
六道輪廻図は結構大きい。
大足の石刻は宝頂山、北山、石門山、南山、
石篆山(せきてんざん)の五つの山に分布し、
最も規模の大きいのが宝頂山。
宝頂山石刻は大足市街の北東約15キロ、
宝頂山にあり、石刻像は一万体以上。
中でも大仏湾は規模が最大で保存状態も良いという。
入場料を払って見学するのはこの大仏湾だ。
大仏湾は、谷を囲んだ全長500メートルのU字型の岸壁で
様々な石刻が広がる。
涅槃の大仏があるから大仏湾かな。
▼第30龕「牧牛図」
僧・趙智鳳(ちょうちほう)により南宋の淳熙年間から
淳祐年間(1174~1252年)まで、七十数年にわたり
造営された。
第30龕(がん)「牧牛図」は、30メートルの龕内に
10人の牛飼いと10頭の牛の日常描かれている。
▼第30龕「牧牛図」
牛が心で人が修行者を意味する仏教説話図らしい。
▼第30龕「牧牛図」全景
この辺はなんだかよく判らないけど、六道輪廻図に続く。
大門を抜けて橋を渡り、石刻博物館を過ぎ
やっと宝頂山の目印を見つけて進んだが…
宝頂山の入場口はまだ遥か彼方(笑)。
カートを利用することを想定している作りだ。
▼この道の先に宝頂山の入場ゲートが有る
入場券を見せてやっと宝頂山石刻入口。
観光客がまばらで良いなぁと思っていたが、
石刻には既に団体観光客がいた…。
この団体客、どこから来たんだろう。
▼「宝頂」と穿たれている下には「福」と「寿」
最初の仏像は目を閉じていた。
微笑む仏はふくよかで女性的。
見ていると癒される。
駐車場を抜けると瑞相橋(ずいしょうきょう)。
瑞相橋を渡って、牌坊を抜けると
大門の右側が宝頂山の旅行センターで
チケット売場が有る。
宝頂山の入場券は115元で当日限り。
宝頂山+北山石窟の入場券は140元で2日間有効…
と言っても、宝頂山、北山共に入場できるのは
一回だけど。
北山石刻の入場料は70元なので、
宝頂山と北山の連票を買った方がお得。
▼宝頂山+北山石窟の連票
有効期限が翌日の23:30…閉まってる時間じゃん。
門の扁額には「天下大足」と有る。
大足は「大いに足る」。
水がふんだんで作物がよく実る、と言うことらしい。
▼石柱は象が支えている
翌11/20、7:42成都東発G8541次で大足南駅へ。
大足南までの所要時間1時間16分。
沿線の田園風景を楽しみにしていたものの
一面の濃霧で何も見えなかった。
こんな霧じゃ高速道路は通行止めだろう。
大足行きをバスでなくて高鉄にしてよかった。
大足南駅には定刻通り8:58に到着。
大足に着くころには霧もすっかり晴れていた。
大足南駅は大足市街からかなり離れているので
先ずは206路で大足市街へ。
9:04発、6元(約96円)。
1時間以上乗るので、日本の感覚では安く感じるが、
中国の路線バスで6元は高い。
さすがは世界遺産路線。
そう言えば麦積山行きも6元だったか…。
206路には買った布団を担ぐ人、生きた鶏が顔を出す
ズタ袋を持って乗り込んで来る人、
田舎らしく、昔懐かしい中国の風景が残っていた。
1時間10分で市中の大足印象に到着、
ここで宝頂山行きの205路に乗り換える。
205路で約30分、宝頂山景区駐車場下車。
駐車場を突っ切って、宝頂山の旅行センターへ。
五顕崗から峨眉山バスセンター(峨眉山旅遊客運中心)
へは20分程だった。
售票処(切符売場)に入ると次の成都行きは10分後の13:00。
窓口で切符を買おうとすると自販機で買えと
促されてしまった。
パスポートじゃ買えない、と言おうとしたところに
成都行き居ないか!! とおじさんが入って来た。
成都便の客引きか? と思いながら、
はいっ!!成都行きます、と手を上げた。
切符持ってるか?
これから買います!
おじさんに手招きされて、自販機の前へ。
早く買え!もう直ぐ出るぞ!!
いや、外人だから自販機じゃ買えない!
と窓口の女性に向かってパスポートを掲げ
やっと切符を売ってもらえた。
峨眉山旅遊客運中心→新南門客運站は
46元 (736円/2018年は1元16円で計算)。
驚いたことに、私を急かしていたおじさんは
成都行きバスの運ちゃんだった。
▼成都行きバスの切符
ここからのバスは新南門バスターミナル行きで
新南門バスターミナルは錦江の南側に有る。
交通飯店の隣と言う方が分かりやすいかな。
最近錦江のことを南河というみたい…。
13:03、乗客3人を乗せたバスは
3分遅れで峨眉山バスセンター発車した。
乗客が3人でも時間が来ると発車するのか。
中国も変わったなぁ…。
と、感心していると、20分程走って停まった。
見れば城北バスターミナル(城北客運站)。
ここで峨眉山発成都行きは満席になった。
▼城北バスターミナル
城北バスターミナルを13:40に発車したバスは
一路新南門へ。
高速に乗って14:05青衣河を渡った。
青衣河は楽山大仏に向かって流れ込む
大渡河の支流だ。
何故、初めての地で青衣河と判ったのかと言えば
運転席の後ろに陣取ったおじいちゃんが
ずっと運ちゃんに話しかけ、あれはなんだ、
この川の名前はなんだと聞きまくっていたから。
気のいい運ちゃんはずっと観光案内しながら
運転していた(笑)。
▼青衣河
城北バスターミナルから新南門バスターミナルまでは
ノンストップで約2時間20分だった。
峨嵋山バスターミナルからだと待ち時間含めて3時間。
やっぱり高鉄の方が早くて便利だ。
清音閣に戻ってバス乗り場の有る
五顕崗(ごけんこう)方面へ。
途中、白蛇と青蛇が闘ったという
闘龍壩(とうりゅうは)があった。
…ただの河原だけど。
川劇の白蛇伝では、
白蛇が峨眉山を下る途中、青蛇に見初められ
青蛇は白蛇を我がものにせんと
戦いを挑んだがあえなく返り討ちにされて
その子分になった。
闘龍壩の先には良寛さんの碑が有る。
「娥眉山下橋」と刻まれた柱が浜に流れ着き
それを見た良寛さんが峨眉山と李白の詩に
思いを馳せて七言絶句を詠んだ。
そんなこともあって、日中友好で
良寛さんの碑が建っているらしい。
▼橋の欄干の猿
ものすごく愛嬌の有る石猿が欄干に乗っている橋を
石猿を眺めながら渡ると、
そこは金亀壩(きんきは)。
伝説によると、金亀壩ではその昔
金色の亀石が掘り出されたとか。
この辺りの売店では、猿除けの棒が売っている。
凶暴猿が出てきたらこれで撃退しろと言う(笑)。
ダム沿いを歩いていると、五顕崗方面から
一人旅らしい若者が歩いてきた。
ここ数年、一人旅の中国人も見かけるようになった。
…この先、どのくらいかかる?
この先の観光地点は清音閣周辺だ。
山道を一人で歩いてきて心細くなったのか、
それとも歩き疲れたのか(笑)。
次までだいたい20分位かな、
と時計を見ながら答えると、
まだそんなに有るのか…。
そんなやりとりを3人の一人旅らしき青年と
交わした後、五顕崗に到着。
五顕崗のバス停で
丁度停まっていたバスに乗り込む。
12:30発と言うことで10分待機。
清音閣の脇を黒龍江に沿って一線天方面へ
10分ほど行くと磨崖がある。
黒龍江は黒水の上流。
名前とは違って流れる水は少ない。
春夏は水量が増えるのかな?
磨崖には唐の太宗(李世民)や
清の康熙帝(こうきてい)の彫像が有る。
▼唐太宗
李世民は秦王の頃に成都に巡察に来た折
峨眉山で李氏の先祖という
老子(李耳)を祀ったらしい。
清の康熙帝は峨眉山の寺院を手厚く保護した。
▼康熙帝
磨崖から黒竜江の更に上流
洪椿橋方面に10分ほど歩いてみる。
凶暴なチベットモンキーを見に行こうと
思ったのだが、まだまだ遠そうな感じ。
そろそろお昼になろうかという時間なので
どうしようか考えていると、生ぬるい風が吹いてきた。
中国文学ではトラの出る前触れだ(笑)。
見上げると、雲の隙間にあった青空も
見えなくなり、雨でも降りそうな黒雲が湧いてきた。
凶暴猿はあきらめて下山、下山。
早く成都に戻り、伊勢丹に和幸のとんかつを
食べに行こう!!
接王亭の右側の階段を上がり
橋を渡ると清音閣。
清音閣前では輿屋さんが寛いでいた。
歩き疲れたら、輿屋さんを雇って移動できる。
清音閣は牛心嶺の麓、黒水と白水の合流点に有り
晋代の有名な学者、左思が
糸竹を言わず山水に清音あり
と謳った事から、清音閣という名がついた。