大陸旅遊倶楽部的日記

三国志・水滸伝・史記の旅と中国茶のほかモロモロ…

五丈原2017 その⑧諸葛廟 衣冠塚と落星石

2020年02月10日 | 中国の旅

▼入場券裏の見取り図を加工したもの

正殿の右斜め後ろに諸葛亮の衣冠塚がある。
87年当時は無かったが、97年に行ったら出来ていた。

▼お馴染みの衣冠塚

衣冠塚の左に行くと将星園。
こちらもお馴染みの、諸葛亮の死に際して
落ちたという隕石がある。
なんてファンタジー(笑)。
ファンはこういう眉唾シリーズに喜んでしまう。
…諸葛亮ファンじゃないけど。

落星石と書いた碑の後ろに
隕石という触れ込みの石が埋まっている。

将星園、とてもキレイに整備された。
落星石の亭を囲むように
文臣廊と武将廊があるが、
塑像の出来はあまり良くない。

▼諸葛亮の奥さん、黄夫人を祭った月英殿

黄夫人像もガラスで保護されてしまった。
線香を焚くからかな?


五丈原2017 その⑤諸葛廟 献殿(けんでん)

2020年02月02日 | 中国の旅

献殿内部は扁額と対聯で埋め尽くされている。

扁額の内容は武侯祠ではお馴染みのものです。

献殿上部の壁には三国演義後半の名場面が描かれている。
…その昔、かなり撮影したので今回はズームで撮らなかった。
かなり薄く退色しているし…。後日昔の写真をUPします。

献殿の奥の中庭には八角亭、その奥が諸葛亮の正殿になっている。

▼八角亭の天井とその奥に正殿の諸葛亮像が見える


含元殿遺址

2020年01月18日 | 中国の旅

丹鳳門の後ろは広大な広場になっていて、その遥か彼方に
大明宮の正殿、含元殿(がんげんでん)の址がある。
含元殿の址を見るためには入場券が必要だった。

大明宮の入場料は60元(当時約1020円)。

▼大明宮公園の入場ゲート

▼含元殿の模型

▼含元殿遺址

▼含元殿遺址から望む丹鳳門

▼中国の新市街はどこも高層ビルだらけ

…しかし、広大すぎる。

▼紫宸殿址

▼含元殿後ろにある博物館

▼唐の宴会風景のジオラマ

▼武則天


丹鳳門

2020年01月10日 | 中国の旅

大明宮は長安の北西にあった宮殿で、唐の太祖(李世民)が父
李淵の為に建設を始め、三代目高宗(武則天の旦那)が大規模な
改修をして太極宮から移り住んだ為、以降政治の中枢となった。
現在は大明宮跡が発掘され、公園として整備されている。

▼この先が大明宮公園

▼シルクロードを彷彿とさせるオブジェと古代の馬車を模った風見鶏

丹鳳門(たんほうもん)は大明宮の正門で、現在復元されている。
さすがに大唐の都、長安の皇宮。大明宮の南門は超巨大だった。

丹鳳門の前を行きかう人と比べればその圧倒たる巨大さが
わかろうというもの…。

超巨大な門には5つのゲートがあった模様。
この楼閣では宴会が開かれることもあったらしい。
最初は門の上で宴会??とも思ったが、実際見てみると
宴会も出来そうな規模だ。

う~~~ん、素敵!!!!

丹鳳門の内部は博物館になっていて、発掘跡が保存されている。


北大街から安遠門

2020年01月06日 | 中国の旅

翌2017年11月24日金曜日。
一晩ぐっすり寝て、やっと復調した。思い返すも恐るべし麦積山…。

西安観光は今日1日のみなので、夏に行けなかった大明宮遺址と阿房宮にでも
行こうと考えていた。朝食をさっさと済ませて北大街を北に向かう。
今回は鐘楼の側に宿をとったので、ホテルを出ると北大街だ。
北大街は鐘楼から真っ直ぐ北に延びる大通りで、旧西安城壁の北門
安遠門(あんえんもん)に続く。

▼鐘楼から北に延びる北大街

朝8時の北大街沿いは、軽食の屋台で賑わっていた。
出勤途中の面々が立ち寄って朝食を買い求めている。
西安の屋台を久しぶりに見たが、全体的に小奇麗になっていた。
昔から変わらない軽食も多いが、道具や屋台はかなり進化している。

その昔、ドラム缶で作った窯に炭や練炭の燃料で焼いていた
小餅(シャオビン)は、今では屋台には不釣り合いな見た目の
プロパンガスのオーブンで焼かれていた。

すごい、仰天!!!

時の流れを感じるねー。

…焼きたての小餅は超美味しそう。

▼小餅の屋台、オーブンが凄い!!!屋台とは思えない!!!

▼北大街の突き当り、安遠門(内側)

▼安遠門(突き出た城楼を横から見たところ)

▼安遠門(城郭の外側)

安遠門をくぐった先には鉄道の高架がある。
大明宮は西安站(せいあんえき)の北側なので、鉄道の高架も
くぐって更に北進。


天水南→西安 ちょこっと三国志

2020年01月05日 | 中国の旅

3路のバスは50分ほどで天水站に着いた。
天水站から天水西站へは1路のバスで20分ほど、
3元(約51円/2017年11月時点のレートは約17円)。
天水站に着いて安心したのか、1路で椅子に座ったら
急に頭が重くなり、ついでに吐き気が…。
二日酔いの朝みたい。恐るべし麦積山。

15時少し前に到着した天水南站の内部はまだ建設工事中。
幸い、15:30の西安行きが取れた。

慌ただしくホームに入って、滑り込んで来た高鉄に乗る。
1時間ほど爆睡した後、ふと目覚めると右手の丘が目についた。

なんか見覚えがある…。

丘には二機のクレーンが経っていた。

まさか、五丈原の諸葛廟か????

乗っていた列車は岐山に停まらないので、一瞬で通り過ぎたが
嫌な予感が。そう、百度地図で確認した諸葛廟は、
高鉄の駅から歩いて行ける程(個人差あり)近いのだ。 

▼後日激写した諸葛廟がある丘

クレーンが立ってたぞ!!!

コンクリートらしきもので固められてたぞ!!!

あれ絶対諸葛廟の丘だ!!!

なんてこった〜!!!

悶々としたまま、列車は定刻通り西安に着いた。


麦積山 おまけ

2020年01月04日 | 中国の旅

▼麦積山入口前の掲示写真 第44窟「寂陵」の菩薩

寂陵(じゃくりょう)は西魏・文帝の皇后、
乙佛(おつふつ)氏の元陵墓。
何でこんなところに皇后の陵墓があったのかといえば、
乙佛氏は皇后を廃されたから。

時代は隋が建国される半世紀ほど前、北魏が東西に分かれた後。

文帝が即位して数年、西魏と東魏が北魏の正統性を争っていると
モンゴル高原の遊牧国家、柔然(じゅうぜん/蠕蠕(ぜんぜん)
の方がなじみ深い気がする)が南下して来た。

東魏と争っている中、柔然と敵対する訳にはいかないので
文帝は柔然の王女を妃として迎えることになり、乙佛皇后は
出家して息子の居る泰州(現天水周辺)に移り住んだ。

12人も子を生した(多くは夭折)ことからも判るように
文帝と乙佛皇后の夫婦仲は良かったが、露骨に下克上の時代。
宇文泰に実権を握られた傀儡皇帝に選択肢は無かったのだろう。 

が、柔然の王女は輿入れしてわずか2年で逝去したので、
死因を怪しんだ柔然の王が兵を挙げ、
そのとばっちりで乙佛廃后は死を賜る。
時に乙佛氏は30歳(中国的に言えば31歳)。

535年 文帝の即位とともに皇后になる
538年 柔然の王女の輿入れに際して皇后を退位
540年 柔然の皇后の逝去に伴い賜死

…なんとも慌ただしい、というかお気の毒。
つーか、流産が多かったとしても、16歳で輿入れして
12回も懐妊したということが凄い。 

文帝の死後、その遺言によって乙佛氏は文帝の永陵に
合葬されたそうだ。 

▼屋外で編み物に勤しむ中国マダム。
30年前はどこの街にも歩きながら編んでいる強者がいたが、
最近はめっきり見かけなくなってしまった。 

正午過ぎの麦積山景区入口は人気が無かった。

10時から観光を始めて3時間、13時過ぎに駐車場に戻ると
34路のバスは既に停まっていた。
天水には他にも見所はあるが、石窟の観光を終えて放心状態。
ただホテルで休みたい一心だ。

………早く西安に行こう

天水站(えき)から在来線だと西安まで4〜5時間。
天水南站から高鉄(新幹線)だと2時間弱。
そりゃぁもう当然高鉄ですよ。
天水南站への最短乗り換えを検索しようとスマホを見ると

………残念!!圏外〜〜!!!! 

麦積山の駐車場、中国聯通(China unicom)は圏外でした。

ここ数年の中国旅行では、SIMフリーのスマホで
香港のプリペイドSIMを使っている。
昔は街に着くと一番最初に地図を購入していたが、
百度地図が概ね便利なので、かなり助かっている。
百度地図の罠にも時々嵌るけどね。
香港のSIMは今のところLINEもできるので超お勧めです。 


麦積山 その捌 高所恐怖症系に酷な石窟

2019年05月27日 | 中国の旅

麦積山は麦積崖(ばくせきがい)ともいい、切り立った崖に仏や
が参道(桟道のが正しいかも…)が貼り付いている。

▼参道はまるで蟻の巣のよう

▼この大仏はなかなかのデフォルメっぷり

参道の階段なんて間隔を置いて板が渡してあるイメージなので
宙に浮いてるかの如く、死ぬほどスリリング…。
去年、敦煌・莫高窟で知り合った青年が、麦積山に寄って来たと
いうので、参道はどうだったか聞いてみたところ、

ハンパ無く怖かった!!

と言っていた。
実際に行ってみないとこの怖さは伝わらない(?)かと思うが、

マジで、本当に、ハンパ無く、超〜怖かった!!!!!!!!!! 

今思い出しても吐きそう。

高所恐怖症ぎみでなくても結構怖いと思うので、
マジ、腹をくくって行くべし。 


麦積山 その漆

2019年05月24日 | 中国の旅

昨日ぼやいた通り、他の石窟同様に麦積山も非公開窟が多く、
この石窟一美しいと思っている第44窟菩薩も非公開。

………第44窟を見に来たのに。有料でいいから見せてほしい。

莫高窟は別料金払えば見られる窟があるが…。入場券売場では
そのような情報は無かった。私が知らないだけなのか?

▼第147窟 北魏時代(A.D.386〜534)

そんな中で、開放窟に素敵な像を見つけると嬉しくなる。

第146、147窟の菩薩(仏?)さまと侍女(信徒の女性?)は
とても美しかった。

……でも鮮卑族の仏像って口角がすごく上がっている…

そう、口元が上がりすぎなのでアルガイックスマイルとはいい難い。

神秘的というより、親しみやすい笑顔。笑い過ぎ?

目鼻立ちは少し怖いけど、この引きあがった口元が親しみやすさを
醸し出している。鮮卑族って大らかな感じだったのかな?

▼第146窟 北魏時代(A.D.386〜534)

▼146窟 北魏時代(A.D.386〜534)


麦積山 その陸

2019年05月23日 | 中国の旅

第4窟左側の力士の脇に第5窟への入口があるが、仕切りの壁を
くりぬいた穴のようで、屈まないと通れない。

▼写真左下の穴を抜けた向こうが第5窟

▼第4窟(右側)と第5窟(左側)

第5窟には三つの仏龕(ぶつがん)があり、隋代に開削し
初唐に完成したそうだ。
龕(ちゅうがん/中央の仏龕)脇の天王像が牛を踏んでいる為、
「牛児堂(ぎゅうじどう)」とも言われている。

▼向かって右側の仏龕

▼この天王像が牛を踏んでる

天王像は胸の下辺りを鉄の帯で固定されているが、
何だか縛られている感が半端ない…。

中龕は開放されていなかったが、内部には隋代の代表的な塑像
一仏、二弟子、四菩薩があるそうだ。
2017年秋の麦積山…いい窟はだいたい非公開です。

左右の仏龕にある一仏二菩薩は初唐の作らしい。

▼左側の仏龕 初唐の仏様らしい感じ

▼第五窟から下に降りるにはこんな階段を下るしかない…


麦積山 その伍

2019年05月14日 | 中国の旅

第9窟の階層から第3窟の「千仏廊」に上がる急階段。

前を行く中国人団体客付きガイドさんの説明では、
1600年以上経った開削当時から使っている階段、ということだ。
急勾配で段が高く上部(踏む部分)が狭い。中国にありがちな階段。
この国の階段ってはるか昔からこういうものなのね。

……まあ、昭和30年代の東京の二階建家の内階段もそうだったけど(笑) 

▼第3窟千仏廊

千仏廊を抜けて階段を上がると第4窟がある。
第4窟は「上七仏閣」、「散花楼」とも言われる。 

下の写真の左上の七つの窟が第4窟「上七仏閣」。
右側の中央の桟道が千仏廊。千仏廊の下にも仏は彫られている。
千仏廊の下にある建物が第9窟。

▼第4窟「上七仏閣」または「散花楼」

第4窟は麦積山入口にある説明書きによると
北周の大都督、李允信(りいんしん)が亡父の為に建立したもので
中国に現存する古代宮殿式仏窟の中で最も大きな窟。
七つの大きな仏龕(ぶつがん)に七仏、菩薩、弟子、廊下の両脇に
金剛の塑像があるが、これらは宋、明代に修復、再建されている
そうだ。 

▼仏龕
 
第4窟の仏龕には額が掛かっていて、麦積山で見て来た中では
ずば抜けて立派な造り。 

が、何故か中の仏像の表情は不機嫌というかお怒りモード。

▼回廊の右脇の力士

▼軒の天上には色鮮やかな壁画が残っている

天井の壁画の中には「薄肉塑壁画」と呼ばれるものがあるらしいが
どれがそうだが不明。


麦積山 その肆

2019年05月13日 | 中国の旅

東崖大仏の右側面を上がって行くと第9窟「中七仏閣」に行き着く。
第9窟は北周代(557〜581年)に造営され、現在は外壁で覆われた
回廊になっている。

回廊に連なる仏龕(ぶつがん)と内部の塑像群は圧巻で、
ここに来て、勇気を出して麦積山に来て良かったと思う程。

▼回廊

▼仏龕内の菩薩 その1

▼仏龕内の菩薩 その2

仏龕毎に塑像の造形が異なり、見ていて飽きない感じ。

▼主仏

阿難(アナン)さんと迦葉(カショウ)さんが侍立する仏龕

主仏の上部にガルーダが描かれている龕もチラホラあります。


麦積山 その参

2019年05月12日 | 中国の旅

階段を上がって行くと東崖大仏(とうがいだいぶつ)の足下に出る。

▼岸壁に貼付いた階段と東崖大仏

東崖大仏(13窟)は麦積山最大の塑像で、主仏は全長15.7m。
1982年の修復時に主仏の右顔から手書きの「金光明経」が
出土したらしい。

この大仏は足下と側面からじっくり眺めることができる。
が、大きすぎて近いと見にくいので、やはり遠景からの眺めが
良いかな。

主仏はなんとなく小林亜星を彷彿とさせる…。 


麦積山 その弐

2019年05月11日 | 中国の旅

▼麦積山石窟地図

こう見ると入口から乗ったカートってあまり意味が無い…。坂道を石窟方面に
曲がらずにそのまま進むと、麦積山を一望できる観景台があるらしい。
現地では気付かなかった。 

瑞応寺の脇を抜け麦積山石窟の入場ゲートで検票して、いよいよ石窟へ。
麦積山石窟のことは学生時代にテレビ番組で知った。
当時は今と違って日中友好!!中日友好!!だったので、中国の紀行番組や
石窟を扱った番組が多かった。
その番組中で見た哀しい王妃をモデルにした美しい仏像が忘れられず…
大同の上華厳寺の露歯菩薩の次に見てみたい仏像だった。 

ただ、天水は交通の便が良くなかった上、自身高所恐怖症気味なので
断崖絶壁の石窟に来る勇気がなかった。

この夏(2017年)、西寧→蘭州と回った後、天水か銀川か迷ったが、やはり
断崖絶壁に恐れをなして、銀川を選択してしまった。
蘭州を発つ前日、テレビをつけると麦積山石窟を取り上げた番組が
放送されていて、思わず見入ってしまった。
唐代の地震で岸壁が崩落したのも麦積山が衰退した一因と言っていた。

……やっぱり天水にすれば良かったなぁ

後ろ髪を引かれる思いで銀川(別に銀川が良くない訳ではない)に向かったが、
麦積山には必ず行こうと心に決めた。

高所恐怖症ぎみだけど…。

話は戻って、石窟に入ると直ぐ左に寂陵(件の王妃の陵)があるようだが、
既に中国人観光客が殺到していたので、先に上を見ようと階段を上がった

▼石窟図(現地のパネル地図を一部加工)

麦積山石窟は窟の前に太めの金網が張られているので良い感じの
写真が撮れない。

 


麦積山 その壱

2019年01月14日 | 中国の旅

34路は天水駅発で終点は麦積山(ばくせきざん)。
運賃は5元(約85円)。観光路線の為か高い…。

9:05に駅を発車した34路は9:54、麦積山に着いた。

麦積山石窟も麦積山風景区として広大な公園に整備されていた。
麦積山景区の入場料は90元(約1530円)。石窟の入場料込み。
石窟を観光しない場合は25元(約425円)。
麦積山景区入口から石窟方面に行くカートは片道8元、往復15元。

▼麦積山景区入口 疎らな観光客はみな寒そう

▼麦積山景区の入場券

カートで坂道を上がり、1分ほどで着いたところは軽食や土産物の
屋台が並ぶ広場だった。シーズンオフの為か、まだ10時前だからか
開店している店はなさそう。

▼軽食や土産物の屋台

カートを降りても石窟に向かうにはまだまだ坂道を上がる。

観光客はあまり見当たらない。
前を上がっていくのはここのスタッフらしい。

坂道を上がっていくと、上の方に麦積山石窟が現れる。
坂道の脇の階段の上に香炉があったので見に行くと、線香売りの
おばさま方に囲まれて線香を売りつけられそうになった(笑)。

山を回りこんで、やっと石窟の麓に着いた。

麦積山石窟麓の山門には瑞応寺(ずいおうじ)という扁額が
かかっていた。

瑞応寺の脇を進んでいくと、いよいよ石窟。

天水の麦積山石窟は、敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)、大同の雲岡
石窟、洛陽の龍門石窟と共に中国四大石窟に数えられる。
莫高窟が壁画の宝庫ならば、こちらは塑像の宝庫と言われている。

麦積山は高さ150m余りの孤峰で、麦を積み上げたような形状から
麦積山と言われているらしい。
中国名勝辞典によれば、麦積山石窟は後秦代(A.D.384~417)に
開削され、西魏の文帝(在位535~551)の時代に改修、寺院を
再興したが、唐の開元22(734)年の大地震で絶壁の中央部分が
崩落し東崖、西崖に分かれた。
現存するものは北魏から清代まで194の窟、7000体余りの泥塑像と
石像、延べ1300㎡余りの壁画らしい(1981年の情報なので整備が
進んでいる現在とは異なるかも)。