夕べ久しぶりにきつめの強迫観念に襲われてしまった。ここ10年では一番ひどいかも。
それ自体がひとつのトラウマだ。
夜テレビを見ていたところ、ある場面から大きなスピーカーが自分の右斜め前にあり、大きな音が流れているさまをイメージしてしまった。
普通はそれをある程度の格闘で追い払う(忘れる)ことができるのだが、昨晩はなんか違ったんだなぁ。
うまく気を散らすことができずに頭の片隅にぼや~っというイメージ(音が鳴っているような、振動しているような)が入り込んでしまったような気がして、更に恐怖感が募った。
そこで更に(よせば良かったのだが)気晴らしになるかとお風呂に入ってしまい、そこで更に悪化。(風呂場は狭くて音が反響するので、逆効果になる場合多し)
もうこの強迫から逃げることは一生無理なのだというような恐怖に襲われた。
もううめくは泣き叫ぶ(一応小さな声で)は吐き気はするはトイレは行くは。「もう限界かも知れない、もう死ぬ」
このまま夜中もこれに苦しむのだったらいっそのこと、ってちょっと思ったわ。
「神様助けて下さい」と手を合わせて祈らずにはいられなかった。
安定剤を飲んで、こいけにも頭をなでてもらって、、だんだん落ち着いてきてぐっすり眠れた。
音のイメージ自体もも恐怖なのだが、それがずっと頭から今後生きている限り離れないのではないか、というのはほんとに恐怖だ。
なぜ、このような強迫観念がいつまでも起こるのかなぁ。
学生時代どんなにいい成績をとっても、当たり前のようになっていて、ほめられることもなく、そのことで「もっともっと頑張らなくてはだめなんだ」という強迫的完璧主義の性格になったのではないか、ということは以前から思っていた。
ただ、それだけでもなく、その後の挫折やひきこもりになって、長い間の自責の念、罪悪感、無力感などにさいなまれ、自己評価が下がり、面の皮が(一見厚そうに見えるのだが)薄~い膜のようになってしまったこともあるのかも知れない。
加えて季節の変わり目であること、仕事のことなどもそりゃ悩みは尽きない。
こうあるべきという自分の姿と今の自分の姿との距離感もやっぱりあるし。
強迫的でリラックスできず、神経質、執着的(粘着質)、こだわり、そんな性格がこういうときに自分を苦しめる。
結局はそのイメージを払えるどころか、自分で探し求めてしまっているのだ。座禅でいうと一切の妄想、想いをただ頭の中に流れるままにしておくということらしいけど、僕の場合は格闘してしまっている。
こんな静かなところに過ごしているのに、頭の中に大きなスピーカーを抱え込んでいるようなのは耐え難いこと。忘れる、ということがいかにありがたいことか。
何でもない日常の光景が、不安と恐怖に満ちた人生の現実へと一変する。
K君も(音ではないようだけど)似たようないやなイメージが頭に浮かんでなかなか追い払えないなんて言っていたっけ。そういえばどうしてるだろう、全然連絡来ないけれど。会いたいなぁ。
今日は午前中、(いつも僕が草を刈っている)田んぼのご夫婦が珍しく草刈りにいらしたので、ご挨拶して、僕も途中から草刈り機を出して手伝ってあげた。
斜面ではなく、いつもはトラクタで耕運してしまう休耕田の部分。
で、いい汗かいて少し横になったらまた少し強迫が出てきた。
これからこいけの娘がご飯を食べに来るというし、大丈夫かなぁ。
夜はホタルを見に連れて行って、癒されたい。
きっと大丈夫。また楽になれるさ。これを書いている間は不思議と忘れてたよ。
ちょっと重たかったかな。1曲お送りしますね。
Just Too Many People / MELISSA MANCHESTER(1975)
(想い出にさようなら / メリサ・マンチェスター)
ニューヨーク生まれのシンガーソングライター。
調べたらまだ元気で活動しているらしくてうれしかった。