全間切を学区域とする高等科を併置する美里校としては、美越校時代の校舎の位置が間切りの南に偏して適当でなく、かつ校舎も狭いので移転増築が必要となり、知花と登川との中間にある弁当馬場の隣に位置を決定し、明治36年(1903年)12月に校舎が落成し移転式典を開催。当時の生徒数は男子307人、女子246人、計553人、12学級であった。
知花橋のすぐ手前(東側)の道を左に折れ、ゆるい坂道を上り切るとその突き当たりは、東側へ折れた道になっている。この折れた道を含めた一帯が知花焼古窯跡である。明確な範囲は分かっていない。現在は住宅密集地に位置している。
住宅もまばらである。知花集落ではかつてこの一帯をさして「壷屋」又は「壷屋の先(チブヤヌサチ)」と呼んでいた。以前よりこの付近から陶器の破片が出土することが知られており、研究者の間ではこの一帯が知花焼古窯跡であることが認識されている。
知花グスクの北側に位置する。石灰岩製の祠と香炉があ。この拝所は新屋敷(ミーヤシチ)と呼ばれる人の土地に近いため「ミーヤ御嶽」又は「モウヤマウガン」とも呼ばれている。チナマチ御願でチナ(綱)が巻かれ拝まれている。祝女が集い周辺の御嶽に遥拝(お通し)したという。
知花のカンサジヤーの南西側に位置する。この広場には石製の祠がある。知花と松本の有志たちは、旧暦5月15日(五月ウマチー)と6月15日(六月ウマチー)の行事で拝まれている。【市指定文化財】
いつの頃か不明であるが、村落創建の時に首里王府から派遣された風水師が係わっており、村のフンシー(風水)の中心も知花グシク裾野東側にある石灰岩転石「チブルシー(頭石)」だと謂れもある。
集落の北方の知花グスクと隣接し樹木がこんもりおい茂った荘厳な森を背景にした場所にある。祝女は神あがめごとにたずさわる神職で、王府から任命され各間切りに配置された。知花祝女は知花、松本、登川、池原の4カ字(戦後)の祭事を司った。祝女殿内には、王府から賜わったという「マガ玉」があったが沖縄戦で惜しくも持ち去られ、現在はレプリカ(複製)が保存されている。
▲レプリカの勾玉
仲大屋には仏壇に香炉が二つあり、神棚に香炉が二つある。その他に香炉が一つあるが、これは旧暦6月25日に部落の根屋(ニーヤ)の一つとして拝む。池原、登川、美里あたりにも子孫がいて旧歴5月15日、6月15日(ウマチー)には拝みに来る。
国道329号「かりゆし通り」入口から約300m先の美さと児童園入口までの「馬場都市緑地」一帯がビントーンマヰー跡である。馬場は全長300m幅50mで毎年陰暦4月のアブシバレー、8月15日には恒例のンマハラシー(馬走り)が行われ、遠くは首里、那覇、中頭各地から200頭余りの名馬が集まった。
ビントーの由来については当時の見物人が弁当箱のような容器は無いので芭蕉の葉っぱ(カーサ)に食べ物を包んでいた。食べ終わったカーサをそこら中に捨てて帰ったためカーサの屑だらけになった。誰言うとなくビントーンマヰー(弁当馬場)と言うようになった。(昭和7年/美里小学校50周年史より)
▲2024.1.22沖縄タイムス記事抜粋
▲2024.1.22琉球新報記事抜粋