知花エイサーの戦前と戦後について解説しています。
●戦前のエイサー
明治時代にはすでに知花にはエイサーが存在していた。いつ発祥したのかは不明。明治時代から男女とも参加していて、組織は青年会で構成されていた。青年会には、それぞれの最終学年を卒業した時点で加入した。引退は男が25歳まで、女は特に決まっていない、だいたい結婚すると引退した。
エイサーの指導は先輩が後輩を指導するという形で、特に決まりはない。明治時代の青年会の参加者は50名ぐらいで、その中に女性が20名ぐらいを占めていた。明治時代には知花は地域をメーンダカリ、シリンダカリと2つの地域に分けていた。
それぞれの地区に分かれてエイサー、綱引きが行われていた。同じ知花でも張り合う気持ちがあり、エイサーの練習はお互いわからないように隠れて行った。戦前は、大太鼓はなく、8つの締太鼓を使っていて、残りは手踊りで参加した。衣裳は特に決まっておらず、各自が持っている一番上等な服を着た。
エイサーの目的は、お盆の霊を見送ることと邪鬼払いをすることで、知花中の全ての家を廻った。各家からの寄付は主にお酒で、エイサーが終わった後に、知花区民が1~2合のお酒を持ち寄って、エイサー酒として飲み会を開いてみんなにふるまった。大正時代からは知花という地域を二分することは無くなり、エイサーも知花全体の青年会として行った。
●戦後のエイサー
エイサーは戦争のために一時期中断しており、戦後は舞台で芸能を披露する村遊びを行っていた。エイサーが復活したのは1955(昭和30)年ごろで、38名の青年会員で行った。当時はものがそんなに豊富ではなく・大太鼓は公民館が区民にいろいろ知らせるために使っていたものを借りて使用した。
戦後復活したエイサーは、昔エイサーをやっていた人達から習い、わからない所は、青年会で工夫して作った。地謡は現役の青年会員ではなく、引退した人のうち三味線の上手い人、10名ぐらいにたのんだ。男は締太鼓から習い始める。大太鼓への役の昇格は総会で決めていたが、事前に役員などからあいつにやらせようと裏で手回しなどをしていた。戦後、復活当初は、集落内の全ての家を廻っていたが、現在は全ての家々でエイサーを踊ることは難しくなっている。知花にはヌンドゥンチがあり、先輩方からそこでは絶対に踊るように言われている。知花のエイサーは戦後復活した当時とほとんど踊りは変わっていない。
基本の隊列は男女それぞれ二列ずつで、場所に応じて踊りやすいように変えている。男の衣裳は青年会の所有物で、女子の着物、手ぬぐい、扇子、四ツ竹は、すべて個人の物。今では手踊りはほとんど女子だけで踊っているが、太鼓の数が足りないときは男も手踊りに加わる。太鼓は飛び跳ねたりするので、疲れるからと、手踊りはベテランがやりたがる.現在の知花の青年会はきちんとした組織にはなっていない。
加入、引退の決まりは特になく、エイサーにあこがれた者が、高校生になると加入する。引退は参加することが難しくなったときで、結婚などが主な原因である。結婚すると毎日夜中まで練習することは難しくなるので自然と来られなくなるが、振り付けは覚えているので当日だけ参加するという人もいる。そのため、青年会の人数名簿にあるが、それでは正確な人数は把握できない。
演技の指導は主に青年会長などの役員が行う。今は4~5名のチョンダラー(滑稽役)がいるが、昔からいるわけではなく、1983(昭和58)年から登場。チョンダラーになるには、その人のキャラクターが重要で、これは練習で得られる者ではなく天性のものが必要。しかし、それだけでチョンダラーにはなれず、ある程度全体を把握する能力、全ての曲を踊れることなどが要求されるため、いくら良いキャラクターを持っていても新人では無理。彼らは、いろいろな雑用も兼ねている。
【昭和35年以前の曲目】
1.エンサー節 2.久高マンジュー主 3. 4.スーリアガリ 5.今帰仁節 6.テンヨウ 6.海ヌチンボーラ節
【昭和35年以前の曲目】
1.稲シリ節 2.イチュビグヮー節 3.谷茶前 が追加された。
【昭和48年地謡交代時の曲目】
1.唐船どーい 2.七月七夕 3.久高節 4.スーリアガリ 5.テンヨウ 6.谷茶前 7.海ぬチンボーラ 8.あやぐ 9.唐船どーい
【2022年時の曲目】
1.仲順流れ 2.久高節 3.スーリアガリ 4.テンヨウ 5.いちゅび小節 *太鼓チリー(カリー) 6.海ぬチンボーラ 7.谷茶前 8.あやぐ
9.唐船どーい
2012年知花青年会エイサー映像
▲2006年8月現在のエイサー
知花エイサーは戦後復活してから途絶えずに続けてはいるが、女性人数の減少、組織の弱体化など不安な面が見られる。知花は伝統行事を区で守っている所なので、ずっとエイサーを続けていってほしい。 <参考資料:エイサー360度より>