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知花ときわ会

知花地域の活動と各地の情報を広く紹介し、情報共有することで地域活性化に繋げようと、このブログを開設しました。

三助じいさんの昔語り ②

2006年03月19日 | ★歴史・伝統・文化

山を巡視した時の話 
「山勝負」のとき、楚南・山城との境界の山めぐりに3名で出かけたことがあった。すると知花区域の山から赤染木(シャリンバイ)の皮を剥いでいる男たちを発見した。相手は山城の者たちで3名だった。ここも3名で、結局1対1で相手を捕え、山城へつき出して一札入れさせた。

あるスーガシラ 
「スーガシラ」とは、いわゆるの会計庶務にあたる者のことで、このようなことがあった。
 ある人がスーガシラになったら村のグムチ(積立て金)を横領し、その金で牛を買って他人に飼分けさせたり、土地を買ったりした。一年たったらグムチの決算期があり、それの埋め合わせに那覇の嘉数という高利貸から金を借りたため、ついには土地はもち論のこと家、屋敷まで取られてしまった。

砂糖運び
 知花からの砂糖積み出しは嘉手納の比謝橋までで、そこからは山原船で那覇へ運んでいた。
 よく砂糖運搬に雇われた。馬の鞍に二丁ゆわえつけて運ぶが、それで16銭だった。1日によく働いて3回は運搬できた。昼食は嘉手納の町から豆腐1丁にタンナハクル一、三枚買ってそれですました。しめて1銭5厘から2銭というところだった。また那覇までは90銭の運賃がもらえた。朝五時ごろから出発し、途中は牧港の励で休憩し、帰りは晩の十時ごろになった。当時の且雇賃が十二銭で、米一升、豚肉で一汗の値段はいつも同じだった。そのころの砂糖の値は1丁3円から4円というところだった。

砂糖樽かつぎ
 当時の製糖はいわゆる「引き車」で、一昼夜に5丁しか製造できなかった。ユンタンジャー(読谷山)とよばれる「島ウージ」だった。1丁の重量が135斤、樽皮の重さが16斤なので、それを差引くと正味は119斤たった。
 樽は泡瀬から買った。その帯につかう竹は知花から出していた。樽を8個かつぐ者からはカナムンと言われた。中には12個(約200斤)持って村人の度肝をぬく者もいた。

砂糖上納 
18才のころである。村の上納砂糖を嘉手納へ運搬して納めて帰ると、村はずれのクビリ(地名)に村中の人が集まって酒肴を準備し、歌三味線で迎えてくれた。迎える者も迎えられる者も皆一緒になって酒を飲み、踊りながらまで帰った。上納の首尾祝いである。

首里から豚を買う 
首里のサンカ(赤田、崎山、鳥小堀)は昔から酒屋が多く、そのモロミで養豚が盛んであった。中頭からも子豚を買いにわざわざ首里まで行く人は、そう珍しくもなかった。1円持って出かけると、子豚は70銭なので10銭は昼食に使い、あとの20銭は残して帰るという時代だった。
ある時、90斤もある豚を買い、棒の先には2、30斤もある石をぶら下げて担いできたこともあった。4、50斤の中豚は買うものも多いが、」90斤ほどの豚を買う者は少なく、そのため安かった。

村の役人 
村()には次の役人がいた
ブジトゥーガシラ  2人
コウサク      4人
スーガシラ     1人
クラテイ      1人
ウヤガシラ     12人
 村の自治はすべて男たちがなすもので、婦人会などはなかった。集りは「村屋」はなかったので、村のアシビナー(遊び庭)か現在の兼本商店の敷地は昔は広場だったので、そこで集りを持った。

ニーセーガシラの活動
 青年会はなかったが、ニーセーガシラ(2才頭)というのがいた。村は前ンダカリと後ンダカリに分れて行事をもっていたので、前に7名、後に7名のニーセーガシラがいた。たいてい35才までで、役につく年限は七年であった。1回とは限らず2回も続ける者もいた。7名のニーセーガシラによって青年たちの活動は運営されていた。その活動の主なものは、村アシビー(村芝居)の計画、綱引き、角力大会の立案からはては他村へ嫁に出る女がいた場合の「馬手間」の請求まであった。婿家及び嫁家の家柄に応じて「馬手間」(シマディマ)の額を取り決めた。もし婿方が払わない時は、嫁の家に請求した。納めた馬手間はそっくり村のグムチ(積立て金)に入れた。
 綱引きやエイサー、角力大会のごときは前ンダカリ、後ンダカリ別々に催した。村アシビだけは一緒であった。知花から石川、伊波、美里あたりへ村芝居を持っていくことがあった。その返札といって、あちらから来ることもあった。そんな時には昼食は迎える側ので準備する慣わしであった。
 ある年、石川へ村芝居を持って行ったが、その時は旗頭持ちをした。旗頭の竿を1人で持つのは相当のカナイムンでなければできないとされていた。
 
村の取締フダ 
村にはフダというのがあった。元来は小さいものであったが、懐中にかくし歩くということから、長さ3~4尺もある角材にかわった。他人の山から山羊の草を刈っただけでもフダを渡された。牛馬による農作物及び山林荒らしは勿論のこと、子供が砂糖きびを食べるのや果物類を食べてもあてられる始末であった。
一日に何厘とか1銭とかのごく安い罰金ではあったが、長期間になるとそれだけ負担になるので、フダをあてられた者は次の違反者を見つけるのにやっきになった。そして3ケ月で他人に渡さねば、村揃いの前で棒で尻を三回打たれて放免ということになった。
 ある時、キビを食べた子供たちを村人が見つけ、村役人の家に引いて行った。すると役人は一方には金を、もう一方には食物を置き、好きなものを取るようにといったところ、子供たちは皆食物の方を選んだので、まだまだ罰するには無邪気すぎるというわけで帰したことがあった。

チンジュ組織 
今の班のようなもので、以前はチンジュ(近所)と呼ばれるものがあった。ウフミチ・チンジュ、チブルシ・チンジュ等と5つ、6つはあったろう。チンジュにはチンジュ頭がいて、チンジュ内の世話をした。葬式の花つくりや棺かつぎなどは、ほとんどチンジュの義務みたいなものであった。他のチンジュヘなら親類でないかぎ妁二人で行くのがふつうだが、チ一ジュ内なら可働者は皆出て世話をしなければならなかった。
 また「モノに持たれる者」(神かくし)が出た場合は、チンジュで1日探し、それでも探しだせないときは全体で捜索する慣わしであった。

16歳は伝達係
15歳の9月には結髪して一人前の大人のかっこうになった。これをカタカシラといい、この祝いのことを「カタカシラスージ祝い」と呼んだ。16歳になったら伝連係になった。そのころの伝達方法は、からへのいわゆる[村つぎ]でなされた。美里から松本へ、松本から知花へ、知花から登川へ、さらに池原、東恩納、石川へという方法だった。
 16歳になったある晩のこと、友人と二人で豊川へ公文を届けに行かされたことがあった。ふだんから魔物の立つ場所として知られるビントー馬場付近まで来たところ黒いかげを見た。2人とも褌をはずしてたたいたところ、水が顔にはねかえって2人とも大笑いだった。水たまりに松のかげが映っていたのである。
 
シカマーのこと 
そのころ一日の日雇賃が男で12銭、女で5銭か6銭だった。シカマーといって、金を2円借りたら毎月1日の割で利子の分働かされるのがいた。ンジャ(下男)はもう姿を消すころだった。これは30円借りて、その利子の分だけ毎日働かされた。自由の身となるには自家からドゥシル(身代金=元金)を支払わねばならなかった。
中島ズリが10銭、辻ずリが20銭のころで、農閑期を利用しては青年たちがズリ買いに行ったものである。

米寿祝いの時の孝行口説
さても んちゃ また
言やりし もっとん(もっとも)
孝ある人の ちみのうめに(君の御前に?)
ちゅしち(忠節)ちくちょて
るしほうめえとん(友人とも)
他人の仲にん 和睦ふくらさ
竹の子のごと 子孫繁盛そて
後世の世まで 百子ふてぇらん
たったまさやに
嬉さふくらさ
サテサテ ウムシルムンサミ

カゾーラーの治し方
「カゾーラー」というのは、ヤーサクリサした入(飢えた者)が死んで、食物を欲しがってかかるのだそうだ。それを治すには、割れた碗にごはんを入れ、火縄を持って道の4辻に投げすて、[おまえは物欲しゃをしてかかるが、これを食べて他へ行け]と言えばよい。

種子取
銀飯を食べるのは、年にせいぜい5回ぐらいのものだった。正月の元旦、盆のお送り、種子取2回、刈入れ直後のミーメー(新米ごはん)がそれだった。
 種子取にはタントゥイグヮーとウフタントゥイがあった。種子を水に浸す日がタントゥイグヮーである。爪に芭蕉の葉を敷いて庭の池に浸した。二日ばかり浸すと取出して、藁をかぶせ発芽させた。稲種子(ムンチャニ)を幡きに行く日が大タントゥイである。苗代の処々には火縄をおき、その晩若者たちは芭蕉の枯葉を丸めて火縄にし、松本のフィーフナトシモー(火振り毛)という所でそれを振ったり、芋を焼いて食べたりした。
 幡きに行く日は帚の使用や豆腐臼を使うことは忌まれた。播いて三回目には「3日ミジ」、「7日ミジ」といい、仏壇にはオーハジューシー(野菜雑炊)を供えた。年明けての雨水の節には田植えである。苗をメーダニと呼び、1束をチュシブイ、3束をチュチカ、30束でチュヌチ、60束でハタチカというふうに計算しておった。植え方には、雑植えをクンマーセーと呼び、三角植え、チョーバン植え(四角)があった。
 
学 校
 自分たちの年配で学校へ通ったのは少なかった。学校は美里と越来の共立で、両間切の頭文字を取って「美越小学校」と言っていた。知花から学校へ通ったのは四名で、そのうち三名は女だった。たいてい役場吏員の子弟であるとか、金持ちの子女であった。
 当時には「ヒラヘーシグミ」というのがあった。鍛冶屋制度といったようなものである。つまり鍛冶屋て道具を作らせて、その代価をすぐに徴収するのてはなく、から米で俸給を支払っていた。ちょうどそのヒラヘーシグミと同じように、これら学校へ通う者たちにから豆や米を手当てとして支給して通わせた。学校は四年制だった。その夜学校がビントー馬場へ移転してからは進学者も多くなった。
 
酒をつつしむ
 村には男8人、女8人の同輩がいたが、今は(1968年年)女2人と男は自分1人だけになった。食事は三度の食事以外の間食をせず、朝、昼の二度ミルクを飲んでいる。煙草は戦後、70才ばかりの時に始めたからまだ17、8年この方である。酒はめったに飲まない。以前の牛オーラシー(闘牛大会)の時は、茶碗酒だったが、相手の目をごまかして懐にこぼしていた。
 ある時など、酔っぱらった友人の肩をかついで帰る途中、若二才たちにからみ田圃に顔をつっこんだ。それを3人の若二才に命じて家まで担いで行かせたこともあった。そのころの人たちの酒入れは椰子の実で作った徳利で、一合五勺入れ、二合五勺入れなどがあった。当時酒を飲みすぎて死んだ人もいた。

私の経歴 
自分は無学であるが、若い頃は村のいろいろな役についた。村の有志を37才から15年間つとめ、農事奨励会の審査員を10カ年、貯蓄組合の組合長を60才でやめるまで8年間つとめた。村の二―セーガシラ、区長にもなった、またずいぶん前のことだが、美里間切から砂糖製造人の5人のうちに選ばれ読谷山(現在の読谷村)へ講習にも行った。嘉手苅、東恩納、阿波根、高原、知花からそれぞれ1人だった。
 

 牛はよく国頭から買って来たが、足を傷めないために草鞋はかせた。サン(山)の高い所の牛は角が尖って高く、闘牛用に向いているといわれた。大宜味牛や伊平屋牛は角が高かった。
サンの低い地方の牛は角が開いて生えていた。

鷹狩り
旧暦9月になると、寒露の節で、「鷹渡り」の季節になる。そのころ川では蟹が下る。アイクバーキという笊をつくり蟹とりをすることもあった。ハルウェンチュ(野鼠)をおとりにして鷹をと取ることがあった。ある年などは十羽もとった。鷹とりは禁止されていたので、早朝暗いうちに準備して出かけた。遠くは泡願方面まで行くことがあった。34、5才のころである。そのように罠を仕掛けて獲った鷹を大きいので20銭、小さいのを10銭で売った寒露もとうに過ぎて冬至のころであった。
 そうして狩りをして自分にも漁師の縁起かつぎがよくわかった。カサギンチュ(妊婦)に出会うともうだめで、逆に葬式に出会ったら成績はよかった。人に出会わないために暗いうちに出かけることが多かった。

シチマジムンの話
 人を迷わせるのはシチマジムンの悪戯だそうである。シチマジムンというのは、豚や家鴨、牛に化け、時には大木みたいにそびえ立ったりするといわれる妖怪である。夜道を歩く時、「くま、くま(こちら、こちら)」と呼ぶのだという。だから、シチマジムンに出会ったら「ヤーヤ、しちドゥヤミ、ワンネー はちドー(おまえは7か、おれは8だぞ)」といえばよいそうだ。

家まで追っかけてきた火の玉
 昔、ある人がビンドー馬場を通って帰ってくる時、ことい牛の形をした黒いものに出会った。そこで禅をはずし、それを振って難を避けて帰ってくると、こんどは道端に火玉があった。それも同様に退散させた。
しかし、フール(豚舎)に行かず、まっすぐ母屋に入ったため、3年目に火災が起きた。火玉がそのまま残ってどこかに住み着いていたのてあろう、とうわさされた。
七回ヤクが入った話ある家でのこと。7回ヤク(厄)が入った。7回目には主人はいい加減いやになり、家族が他へ行ってのち戸棚の中に隠れていた。すると夜通し何者かが6尺棒で戸棚の戸をたたいて、あまりの恐ろしさに主人は恐怖におののいた。その人は3年もまたず死んだ。

雷のこと 
帽のことをカンナイという。カンナイが鳴ると、[桑木の下ドーイ(だぞ)といった。師走の雷が鳴ると、トー豆(そら豆)が実が入らず、鶏の卵やハブの卵が孵化しないといわれた。師走の雷の時は、シムル(孵化しない卵)を防ぐため鶏の巣の下に鉄を置く。鶏は師走に一般にスクム(巣ごもり)をする。

地震のこと
地震のことを「ネー」という。ネーがふると「チョージカ・チョージカ」という。具志川の津嘉山の森はネーがないからだそうだ。

松本の芋皮ビージル
9月は神拝みの月である。だからどこでもむやみに拝んではいけない。そこに神がいついてしまうからである。松本の「芋皮ビージル」という拝所がそうである。
 昔、田打ちをしていた人が雨宿りをしていて、サツマイモを食べながらその皮をそこへほおり捨てて、何事かを祈ったことに始まるという。「芋皮ビージル」の名もこれに由来するという。
子どもの体が弱いと、そこのビージルを拝んだ。

旗頭のこと 
大アシビといって昔は犬掛かりな村芝居を催したものである。その時村のシンボルである旗頭を立ててその前で演じる習わしであった。また他の村へ村の芝居を待って行くことがあったし、あちらから持って来ることもあった。そのような場合、旗頭を先頭に押し立てて往復するのがきまりであった。知花は石川と美里との間でよく交換の公演をしていた。接待は招待した側の負担であった。
 いつのころの話かさだかではないが、石川から旗頭を押し立てて来たことがあった。何の打ち合わせもなく来たことで、知花のアシビガシラ(遊び頭)が受け入れを断った。怒った石川の一行は、旗頭をその家に向けて倒しておいた。遊び頭の家はその怨みによるものか、ついに絶えてしまった。旗頭を人家に向けて横たえることは今でも良くないことだとされている。

【参考文献】上江洲 均/南島の民俗文化 1987年より 
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