ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

聖書通読エッセイ「伝道者の書」2

2020年05月06日 | 聖書
伝道者の書2、空の空。(伝道者の書1章10節~18節)



 「空の空」にある「空」とは、元来「息」とか「水蒸気」を意味する語で、比喩的に用いて、「すぐ消えてしまうもの」「実体のないもの」、さらには「信頼するに足りないもの」の意味(新実用聖書注解)

 「これを見よ。これは新しい。」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。(伝道者の書1章10節)
 先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。(11節)
 伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。(12節)
 私は、天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。(13節)
 私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。(14節)

 「伝道者の書」は、いわゆる「聖書読み」でない人たちが読んでも、訴えるところがあると言われています。「なんとすべてがむなしいことよ。」は、福音の指し示すメッセージとは対極にあるように見えます。福音は、「私たちの人生は、死で終わるものではない」と示しているのです。
 自分もまた神様によって、神様のご計画の内に造られたものであるとの希望、たとえ死んでも生きる(ヨハネの福音書11章25節)存在なのだと確信が持てる時、「空しさ」を思うことはなくなるのではないでしょうか。

 聖書に、「伝道者の書」が収録されていること、その著者が、ダビデの子イスラエル王国の王ソロモンだと推定されていることに、驚きを覚える方も多いと思います。
 まして、ソロモンです。エジプトから救い出されて、神と契約を結んでいただいたイスラエルの民の国は、ダビデにおいて完成し、ソロモンの時代に盤石になったように見えるのです。
 ところが、じっさいには、神がイスラエル民族に課された「神の救いの器としての民」は、ソロモンの時代を頂点にして、迷走して行ったのです。

 古代イスラエル王国はソロモンの死後、南朝ユダ王国と北朝イスラエル王国に分裂してしまいます。国が分裂する原因は、ソロモンの奢侈な生活、多くの妻が持ち込んだ偶像礼拝、神の御心に反した軍備増強、過重な課税や労役などで同胞イスラエル人を痛めつけていたことなどが、挙げられています。
 しかし、むしろ、それらの結果として咲いた華麗な宮廷生活の中で、王が「空の空」と言わなければならなかったことこそ、原因かもしれません。

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 曲がっているものを、まっすぐにはできない。
 なくなっているものを、数えることはできない。(15節)

 私は自分の心にこう語って言った。「今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」(16節)
 私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。(17節)


 「富ですべてを買うことはできない」とわかるためには、逆に想像もできない富を持つことかもしれません。知恵も、ほんとうに知恵や知識をぎりぎりまで極めた人だけが、その限界を「知る」らしいと、学者の方々のコメントを見ていて思うことがあります。
 以前、最高裁判所の判事だった方が、「心残りだった判決がありますか」との質問を受けて、「ないとは言えません」と答えておられたのをテレビで見ました。裁判の決着がつかないとき、けっきょく最高裁まで争われるわけですから、責任は重いのです。
 裁量権を与えられ、法律の知識やその運用の仕方を熟知していて、限界を覚える方がいるのです。
 たしかに次のような、言葉もその通りであろうと思うのです。
 
 実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、
 知識を増す者は悲しみを増す。(18節)




 「伝道者の書」は、さとうがSeesaaブログで書き続けている聖書通読エッセイの中のひとつです。2013年8月から約一か月にわたって連載しました。旧約聖書39巻のなかでは「知恵文学」に分類されています。
 ダビデ王、その子ソロモン王が君臨したイスラエル王国はBC1044年ころ、初代の王サウルが即位して始まりました。それ以前のイスラエルは、神政政治国家であり、王はいませんでした。
 BC1004年ダビデが都をエルサレムに定めて統一王朝を立て、その子ソロモンの時代が全盛期でしたが、ソロモンの死後、国は南北に分裂します。
 BC722年北イスラエル王国の首都サマリアがアッシリアによって陥落させられ、民はアッシリア捕囚に連れ去られ、世界中に散らされました。
 BC586年、バビロンによって南ユダ王国の首都エルサレムが陥落し、民はバビロン捕囚で連れ去られ、これにより、イスラエル王国は壊滅しました。

 さとうまさこ「聖書通読エッセイ」は、2010年からSeeSaaブログに、3500回ほど、連載を続けているもので、現在新約聖書の「ローマ人への手紙」に入っています。よろしければ、訪問してくださいますように。
 よろしくお願い申し上げます。

                              さとうまさこ


聖書通読エッセイより、「伝道者の書」を振り返る。

2020年05月06日 | 聖書
伝道者の書1空の空。伝道者は言う。(伝道者の書1章1節~14節)


 伝道者の書の著者は、ダビデの子ソロモンです。ソロモンは、イスラエル王国の歴史を通じて、もっとも隆盛な王でした。
 彼の時代、国力は充実し、彼はその勢力を広げ、貿易や外交力を駆使して、空前の繁栄を国にもたらしました。(Ⅰ列王記4章21節~34節)何と言ってもソロモンは、第一神殿を建てた王でした。(Ⅰ列王記5章~9章)新しい事業を次々と展開し、手にした黄金で王宮を建て、軍備を増強しました。また「妃7百人、側女3百人」と言われる多数の妻をもちました。
 彼はまた、高い徳と知恵をもった英明な王としても知られました。その洗練された宮廷は、シェバの女王を驚かせ(同10章1節~13節)、その知恵で裁いた難事件は、聖書にも記されています。(Ⅰ列王記3章16節~28節)生きている間に3千の箴言を書き,詩歌に通じ、あらゆる学問にも通じていたと言われています。

 「伝道者の書」は、華麗で隆盛な権力者として生きた一人の王によって書かれたのです。このことは、書物のことばに重い真実を加えていると、思います。


 エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。(伝道者の書1章1節)
  空の空。伝道者は言う。
  空の空。すべては空。(2節)
  日の下で、どんなに労苦しても、
  それが人に何の益になろう。(3節)

 「労苦することが何の益になろう」という嘆息は、とても虚無的ですが、多くの人の共感を呼ばないでしょうか。長い人生においては、だれでも何度か「いったい自分のやっていることに、何の益があるというのだ。空しい」と、感じることがあるでしょう。とくに、貧しかったり、下積み続きだったりすると、人生に意味などあるのだろうかと思えてしまいます。けれども、伝道者は、貧しい下積みの庶民ではありません。ですから、ここにある「労苦」はたんに、額に汗を流して働いているような、社会的物質的に報われないような労苦ではないのです。それだけに、意味が深いと思います。

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 一つの時代は去り、次の時代が来る。
 しかし地はいつまでも変わらない。(4節)
 日は上り、日は沈み、
 またもとの上る所に帰って行く。(5節)
 風は南に吹き、巡って北に吹く。
 巡り巡って風は吹く
 しかし、その巡る道に風は帰る。(6節)
 川はみな海に流れ込むが、
 海は満ちることがない。
 川は流れ込む所に、また流れる。(7節)


 「生々流転(せいせいるてん)」と言いますし、「歴史は繰り返す」などとも言います。前者は自然現象の表現であり、後者は人の営みに対するものでしょうか。
 大きな視点で見ると、目に見える世界が「ある法則で繰り返されている」のを、だれでも「知って」いるのです。
 多くの学者を抱え、世界を観察し、当時の最高の知性を得ていたソロモンは、もとより、「繰り返す」世界を見据えていたのでしょう。
 その結果、彼は次のように、結論するのです。

  すべての事はものうい。
  人は語ることさえできない。
  目は見て飽きることもなく、
  耳は聞いて満ち足りることもない。(8節)
  昔あったものは、これからもあり、
  昔起こったことは、これからも起こる。
  日の下には新しいものは一つもない。(9節)

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 私たちが生きている、「日単位」の世界では、毎日、胸を痛めるような事件が起こります。胸躍るすてきなニュースももちろん、あります。

 ここ最近は、地震のニュースでもちきりです。家が倒壊し、地滑りが起り、道路が破壊され、多くの人が亡くなり、震度4以上の余震が数日間に80数回もあったなどと聞くと、恐ろしさに胸が痛みます。
 ところが、日本では古来大地震が繰り返されてきたのです。私たちが現に生きている過去五十年間にもたくさんの地震がありました。そして、地震学者のコメントを聞く限り、それらは防げない災難で、これからも起こり得るのです。
 科学が進歩し、マスコミが発達し、ネットを自由に駆使できる時代の私たちは、ある意味ソロモンのように大きな情報を握っているかもしれません。
 だからこそ、ソロモンのつぎの言葉に、共感できる気がすると思います。

 「これを見よ。これは新しい。」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。(10節)
 先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。
 伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。(12節)
 私は、天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。(13節)
 私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。(14節)





 「伝道者の書」は、さとうがもう一つのブログで書き続けている聖書通読エッセイのひとつとして、2013年8月から約一か月にわたって連載したエッセイです。旧約聖書39巻のなかでは「知恵文学」に分類されています。「神の人類救いのご計画」がテーマとなっている聖書の中では、むしろ異色な趣のある書物ですが、この時期に読み返してみたいと思い、ここに再録させていただきます。
 さとうまさこ「聖書通読エッセイ」は、2010年からSeeSaaブログに、3500回ほど、連載を続けているもので、現在新約聖書の「ローマ人への手紙」に入っています。よろしければ、訪問してくださいますように。
 よろしくお願い申し上げます。

                              
さとうまさこ