知恵は町の10人の権力者よりも知恵者を力づける。(伝道者の書7章19節)
この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。(20節)
人の語る言葉にいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたを呪うのを聞かないためだ。(21節)
あなた自身も他人を何度ものろったことを知っているからだ。(22節)
自己啓発の本はよく売れるそうです。コンサルタント業も花盛りです。カウンセリングという言葉も、どこにでも見られます。
情報がこれだけ広く拡散され、簡単に手に入る時代ですが、やはり人は、自分の行く道に迷っているのでしょう。知識は正しい情報に裏付けられるべきでしょうが、実際には、それは言葉のアヤでしかありません。正確な情報、正しい情報が、まず手に入っているかを吟味しなければなりません。新聞やネットの情報、業界紙、学会誌、広報、口コミが正確だという保証はありません。けれども、私たちは、そのようなところから情報を得るしかないのです。
正確な情報を得ても、例えば天気予報のように――特定の人の利害と偏見に基づかないものであっても――雨の予報にどう対応するかは、人によって異なります。子供の頃よくありました。遠足の日の朝になっても決行か中止か決まらず、一応、弁当とおやつをリュックに詰めて学校に出かけたものです。子どもは、おやつがあるし弁当も特別メニューだったりしますから、それでも嬉しいのです。しかし、学校側はそうは行きません。ピクニック先で、雨に濡れて風邪をひく子供がいたら大変です。弱くてすぐに泣き出す子や、迷子になる子が出る可能性もあります。
そんな時、どう決断するかが知恵なのでしょう。一応マニュアルはあるのでしょうが、先生たちが苦慮する苦心する場面です。
★★★★★
たかが遠足の話です。ですが、先生たちの間でも賛否が分かれたりするとき、校長先生はいかに決断を下すべきなのでしょう。
聖書の言葉は、高邁(こうまい)すぎてすぐに役に立たないという人がいます。ところが、このようなときにも、伝道者の書7章19節以下は、とても意味のある言葉です。
責任者は、まず神の前にへりくだって祈るのです。全能の神が示された答えを聞き取り、それを選び取った後は、口論を終わらせ、リーダーになり、実行するのです。人の言葉に心を揺らされてはならないのです。人は、わずかなことでも他人との意見の違いを呪いますし、それは、「あなたもそうでしょう」と伝道者は言っています。
★★★★★
私はこれらのいっさいを知恵によって試み、そして言った。「私は知恵あるものになりたい」と。しかし、それは私の遠く及ばないことだった。(23節)
今あることは、遠くて非常に深い。だれがそれを見極めることができるだろう。(24節)
私は心を転じて、知恵と道理を学び、探り出し、捜し求めた。愚かな者の悪業と狂った者の愚かさを学びとろうとした。(25節)
「これらいっさい」の意味は、伝道者の書の最初から、著者がテーマにしている「知恵」のことでしょう。彼は、神に向かって知恵を乞いながら、やはり自分で「知恵と道理」を探り出し、捜し求めずにはいられないのです。しかし、彼はそれを、「愚かな者の悪業と狂った者の愚かさ」と言っています。
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私は女が死よりも苦々しいことに気がついた。女はわなであり、その心は網、その手はかせである。神に喜ばれる者は女からのがれるが、罪を犯す者は女に捕えられる。(26節)
見よ。「私は道理を見いだそうとして、一つ一つに当たり、見いだしたことは次のとおりである。」と伝道者は言う。(27節)
伝道者は、女性との関係で、「これこそ真実」と思うことも多かったはずです。男女関係は美しい想像をかき立てる世界、人の目を開かせると思えるような景観がある世界です。
七百人の妃と三百人のそばめを手にしていたソロモンは、官能の神秘も極めたに違いありません。
その結果、それで、言うのです。
私はなおも捜し求めているが、見いださない。私は千人のうちに、ひとりの男を見いだしたが、そのすべてのうちに、ひとりの女も見いださなかった。(28節)
これでは、女性たちは立つ瀬がないと思いますが、ソロモンの結論です。
私が見いだした次の事だけに目を留めよ。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。(29節)
ソロモンは、有能な人材をたくさん侍らせていたでしょう。彼が何かを諮問すると、りっぱな答えが競うように王の耳に届けられたことでしょう。
しかし、けっきょく、彼は選択できず、ため息をつくばかりの自分に気が付いたのではないでしょうか。
この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。(20節)
人の語る言葉にいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたを呪うのを聞かないためだ。(21節)
あなた自身も他人を何度ものろったことを知っているからだ。(22節)
自己啓発の本はよく売れるそうです。コンサルタント業も花盛りです。カウンセリングという言葉も、どこにでも見られます。
情報がこれだけ広く拡散され、簡単に手に入る時代ですが、やはり人は、自分の行く道に迷っているのでしょう。知識は正しい情報に裏付けられるべきでしょうが、実際には、それは言葉のアヤでしかありません。正確な情報、正しい情報が、まず手に入っているかを吟味しなければなりません。新聞やネットの情報、業界紙、学会誌、広報、口コミが正確だという保証はありません。けれども、私たちは、そのようなところから情報を得るしかないのです。
正確な情報を得ても、例えば天気予報のように――特定の人の利害と偏見に基づかないものであっても――雨の予報にどう対応するかは、人によって異なります。子供の頃よくありました。遠足の日の朝になっても決行か中止か決まらず、一応、弁当とおやつをリュックに詰めて学校に出かけたものです。子どもは、おやつがあるし弁当も特別メニューだったりしますから、それでも嬉しいのです。しかし、学校側はそうは行きません。ピクニック先で、雨に濡れて風邪をひく子供がいたら大変です。弱くてすぐに泣き出す子や、迷子になる子が出る可能性もあります。
そんな時、どう決断するかが知恵なのでしょう。一応マニュアルはあるのでしょうが、先生たちが苦慮する苦心する場面です。
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たかが遠足の話です。ですが、先生たちの間でも賛否が分かれたりするとき、校長先生はいかに決断を下すべきなのでしょう。
聖書の言葉は、高邁(こうまい)すぎてすぐに役に立たないという人がいます。ところが、このようなときにも、伝道者の書7章19節以下は、とても意味のある言葉です。
責任者は、まず神の前にへりくだって祈るのです。全能の神が示された答えを聞き取り、それを選び取った後は、口論を終わらせ、リーダーになり、実行するのです。人の言葉に心を揺らされてはならないのです。人は、わずかなことでも他人との意見の違いを呪いますし、それは、「あなたもそうでしょう」と伝道者は言っています。
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私はこれらのいっさいを知恵によって試み、そして言った。「私は知恵あるものになりたい」と。しかし、それは私の遠く及ばないことだった。(23節)
今あることは、遠くて非常に深い。だれがそれを見極めることができるだろう。(24節)
私は心を転じて、知恵と道理を学び、探り出し、捜し求めた。愚かな者の悪業と狂った者の愚かさを学びとろうとした。(25節)
「これらいっさい」の意味は、伝道者の書の最初から、著者がテーマにしている「知恵」のことでしょう。彼は、神に向かって知恵を乞いながら、やはり自分で「知恵と道理」を探り出し、捜し求めずにはいられないのです。しかし、彼はそれを、「愚かな者の悪業と狂った者の愚かさ」と言っています。
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私は女が死よりも苦々しいことに気がついた。女はわなであり、その心は網、その手はかせである。神に喜ばれる者は女からのがれるが、罪を犯す者は女に捕えられる。(26節)
見よ。「私は道理を見いだそうとして、一つ一つに当たり、見いだしたことは次のとおりである。」と伝道者は言う。(27節)
伝道者は、女性との関係で、「これこそ真実」と思うことも多かったはずです。男女関係は美しい想像をかき立てる世界、人の目を開かせると思えるような景観がある世界です。
七百人の妃と三百人のそばめを手にしていたソロモンは、官能の神秘も極めたに違いありません。
その結果、それで、言うのです。
私はなおも捜し求めているが、見いださない。私は千人のうちに、ひとりの男を見いだしたが、そのすべてのうちに、ひとりの女も見いださなかった。(28節)
これでは、女性たちは立つ瀬がないと思いますが、ソロモンの結論です。
私が見いだした次の事だけに目を留めよ。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。(29節)
ソロモンは、有能な人材をたくさん侍らせていたでしょう。彼が何かを諮問すると、りっぱな答えが競うように王の耳に届けられたことでしょう。
しかし、けっきょく、彼は選択できず、ため息をつくばかりの自分に気が付いたのではないでしょうか。