だれが知恵ある者にふさわしいだろう。
だれが事物の意義を知りえよう。
人の知恵は、その人の顔を輝かし、
その顔の固さを和らげる。(伝道者の書8章1節)
この問いは、反語ですね。こんなふうに問われたら、答えはもう明快です。知恵あるものにふさわしい人間などいないのです。事物の意義を知る人間もいないのです。そんな人間が集まって社会を形成して生きていくのです。まさに、世界は不条理です。
知恵あるものにふさわしい人間はいないとしても、それでも、知恵を求めることは、神に似せて造られた人間として、本能のようなものではないでしょうか。伝道者は神を信じる人ですから、神を信じ、恐れることを前提に論を展開しているはずです。神を恐れることによって、私たちは知恵への一歩を踏み出すのです。
知恵を見出したと思えることは、どのような凡人にも罪びとにもあるわけです。本物の知恵は、人の顔を輝かす、こわばっていた心をなごませるのは、だれもがうなずけることだと思います。
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私は言う。王の命令を守れ。神の誓約があるから。(2節)
王の前からあわてて退出するな。悪事に荷担するな。王は自分の望むままを何でもするから。(3節)
王のことばには権威がある。だれが彼に、「あなたは何をするのですか。」と言えようか。(4節)
命令を守る者はわざわいを知らない。
知恵ある者の心は時とさばきを知っている。(5節)
前節から繫げて読むと、王の命令を守らなければならない理由は、あきらかです。
人間はだれも、知恵があるとは言えないのです。一般的にも「神ならぬ身」という言葉があります。神でない者には多くの限界と制約があるのです。
王(首長)もまた人間に過ぎませんが、それでも、王の命令を守らなければいけないのは、古代イスラエル王国では、王は神が任命しておられるとの前提があるからです。神からの権能を授けられてことを行い、人をさばくことができるのです。
王の命令を守ることは、たんなる処世の術を超えているのです。
王の背後に「知恵ある者=神」が付いている、もしそういう前提がなければ、王もそのような自覚がなければ、たしかに政治やさばきは立ち行かないでしょう。
ただ、これは「理念としては」真理ですが、しょせん、王も人間です。決して神の御心のとおりは行えません。聖書にも、神の御心に反したイスラエルの王はたくさん登場します。(→列王記)
神に叛く王が罰せられて、悲惨な末路になっていることが、逆に、王の権威の重さを語っていると思います。