すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいが多いからだ。(伝道者の書8章6節)
何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかをだれも告げることはできない。(7節)
このような言葉を読むと、あらためて、私達は恐れに捕らわれて生きているのだと、思い知らされます。虚無的でなく、生産的に実際的に前向きに楽観的に生きるのは楽なのですが、虚無的悲観的であるのが幻想だとは言えません。だれもが、「運命のいたずら」を体験するのです。とつぜんの災害や、予定を狂わせる出来事に備えながら生きているのに、そのような人の知恵を、一瞬で押しつぶす「時」があるのです。
先の地震(!東北大地震、この記事の初出は2016年5月)のような大きな災害は、私たちの平和や無事を握っているのは、私たち自身ではないと、気づかされます。保険を掛けて、家も耐震住宅にして,防災グッズで備えておくことは、もちろん意味があります。しかし、地震を恐れていては、完全な耐震構造の家の中から一歩も動くことができません。
風を支配し、風を止めることのできる人はいない。死の日も支配することはできない。この戦いから放免される者はいない。悪は悪の所有者を救いえない。(8節)
天災は人の限界を思い知らせる出来事です。でも、天災がなくても、私たちは自分の限界を思い知らされています。それは「死をまぬがれない」ことです。これは悪人も同じです。悪は自分が生きのびるためにどのような無法も行うのですが、結局のところ、悪魔に身を売っても、「自分を救う」ことはできないのです。
私はこのすべてを見て、日の下で行なわれるいっさいのわざ、人が人を支配して、わざわいを与える時について、私の心を用いた。(9節)
そこで、私は見た。悪者どもが葬られて、行くのを。しかし、正しい行ないの者が、聖なる方の所を去り、そうして、町で忘れられるのを。これもまた、むなしい。(10節)
「伝道者」はソロモンだと言われていますから、王なのです。支配者である王は、世の中を俯瞰(ふかん)するように見る訓練ができています。彼は、支配できる側が、支配される側にわざわいを与える出来事を目にすることが多かったでしょう。王への訴えには、不当な目に遭った人からの告訴が引きも切らず、知恵者のソロモンでも、苦慮する事例はたくさんあったと思われます。
王は出来る限り正しい判決で悪者に罰を与えます。ところが、わざわいに苦しめられたあと、正しい人も町から去って、けっきょく忘れ去られるようなことが起ります。
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悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行なう思いで満ちている。(11節)
たしかに、読み切り連載の時代劇のテレビドラマ(たとえば、水戸黄門)に出てくるようなすっきりした悪因悪果の解決を、世の中に見ることはめったにありません。死刑に値するような重い罪ほど、判決までに時間がかかっています。
もっとうまくやる方法があるだろうと、怒る声もあるのですが、神のなさること(ご計画)は、なかなか私たち人間の短い人生では理解できないことが多いのです。
自分を「永遠から永遠のスパン」において、見ないといけないのかもしれません。