神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。(伝道者の書7章13節)
順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。(14節)
伝道者の視点は、知恵を下さる神に戻って行きます。
ここに言われている二点、神が曲げたものを人はまっすぐには出来ないこと。順境の日に喜び、逆境には反省するというのが、神を知る者の「知恵」なのでしょう。
人は、神をこのような全能で主権をお持ちの方だと認めない限り、悪あがきをすることになります。
地震や不条理な犯罪が起きると、神を否定する人たちは鬼の首でも取ったように言います。「どこに神がいるのか」
しかし、聖書の神は、この世界の統べての場所に遍在しておられ、この地上そのものを現出しておられ、私もあなたも神の作品であり、ろくろの上にある土の器であると思えば、そんな生意気なことは言えませんね。
★★★★★
じっさいこの世は、不条理に満ちています。
楽園を追放された時に、人類は悪魔もろとも、不条理の世界に入ったのですから仕方がありません。
私はこのむなしい人生において、すべての事を見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある。(15節)、
私自身、長い間、このような聖書の神に「物申したい」人間でした。
いえ、救われた後でも、あるみことばには、爪を立てたいような気分になりました。
たとえば、天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイの福音書5章45節)
あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。(16節)
これは、「あなたは(自分こそ)正しい」と思い込みやすい人間性への戒めかもしれません。良い人は「自分は正しい」「自分は知恵がある」と思うように方向づけられて成長してきたわけです。
逆も言えます。
悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。自分の時が来ないのに,なぜ死のうとするのか。(17節)
「悪くて何が悪い」と開き直る声もあります。「生きるってことは、なまやさしいことではないんだ。みんな他人やほかの者を犠牲にして生きているんだ」。
もとより、そのような「悪」は神の厭われるところで、彼は滅びの中にいるのです。みずから死のうとするようなものなのです。
私たちは、善悪を含め、神の目を恐れながら微妙なバランスを生きなければならないのかもしれません。絶対に正しいなどという生き方はあり得ないのだから、と伝道者は見ているのです。
一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者は、この両方を会得している。(18節)
順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。(14節)
伝道者の視点は、知恵を下さる神に戻って行きます。
ここに言われている二点、神が曲げたものを人はまっすぐには出来ないこと。順境の日に喜び、逆境には反省するというのが、神を知る者の「知恵」なのでしょう。
人は、神をこのような全能で主権をお持ちの方だと認めない限り、悪あがきをすることになります。
地震や不条理な犯罪が起きると、神を否定する人たちは鬼の首でも取ったように言います。「どこに神がいるのか」
しかし、聖書の神は、この世界の統べての場所に遍在しておられ、この地上そのものを現出しておられ、私もあなたも神の作品であり、ろくろの上にある土の器であると思えば、そんな生意気なことは言えませんね。
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じっさいこの世は、不条理に満ちています。
楽園を追放された時に、人類は悪魔もろとも、不条理の世界に入ったのですから仕方がありません。
私はこのむなしい人生において、すべての事を見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある。(15節)、
私自身、長い間、このような聖書の神に「物申したい」人間でした。
いえ、救われた後でも、あるみことばには、爪を立てたいような気分になりました。
たとえば、天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイの福音書5章45節)
あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。(16節)
これは、「あなたは(自分こそ)正しい」と思い込みやすい人間性への戒めかもしれません。良い人は「自分は正しい」「自分は知恵がある」と思うように方向づけられて成長してきたわけです。
逆も言えます。
悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。自分の時が来ないのに,なぜ死のうとするのか。(17節)
「悪くて何が悪い」と開き直る声もあります。「生きるってことは、なまやさしいことではないんだ。みんな他人やほかの者を犠牲にして生きているんだ」。
もとより、そのような「悪」は神の厭われるところで、彼は滅びの中にいるのです。みずから死のうとするようなものなのです。
私たちは、善悪を含め、神の目を恐れながら微妙なバランスを生きなければならないのかもしれません。絶対に正しいなどという生き方はあり得ないのだから、と伝道者は見ているのです。
一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者は、この両方を会得している。(18節)