ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

伝道者の書20 生きている犬は死んだ獅子にまさる。(伝道者の書9章1節~10節)

2020年05月26日 | 聖書
 というのは、私はこのいっさいを心に留め、正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にあることを確かめたからである。彼らの前にあるすべてのものが愛であるか、憎しみであるか、人にはわからない。(伝道者の書9章1節)
 すべての事はすべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえをささげる人にも、いけにえをささげない人にも来る。善人にも、罪人にも同様である。誓う者にも、誓うのを恐れる者にも同様である。(2節)


 このような論の展開は、神を信じない人の共感も得られる箇所です。結局、みんな死んでしまう。どんな生き方を選ぼうと、最後は全員、死んでしまうと思うからです。


 同じ結末がすべての人に来るということ、これは日の下で行なわれるすべての事のうちで最も悪い。だから、人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く。(3節)


 私たちの中に悪が満ちているのは、正しい人も悪人も、「死んだら同じ結末がくるからだ」とソロモンは言います。だったら、「『生きている犬は死んだ獅子に勝る』のではないか。」
 ひとたびこのような考えにとらわれたら、あとはらせんを落ちていくようなものです。「命あってなんぼ」「どうせ死んじまうんだ。だったら生きているうちに楽しもう!!」

 ソロモンは、知識と知恵に満ちていた王ですが、「獅子である自分が、犬に過ぎない者と同じ死体になる」と思うだけで耐えがたかったことでしょう。
 虚無的になるはずです。


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 すべて生きている者に連なっている者には希望がある。生きている犬は死んだ獅子にまさるからである。(4節)
 生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられる。(5節)


また、ソロモンが、これほど即物的なのは、彼が豊かであったからかもしれません。彼はある意味で全世界を手に入れ、彼が欲しいと思うすべてを所有することができました。目に美しいもの、耳に楽しいこと、柔らかい絹の着物や五感をふるわせる香油、ありとあらゆる快楽、知的快楽から肉的快楽までが取り揃えられていました。それは、生きていてこそ得られる報いでした。
 ソロモンは二十年をかけて、神殿と自分の家を建てました。(歴代誌8章1節)
 それは、かつてどのイスラエル人も経験したことがないような大事業でした。ソロモンの栄誉はこの上もないものでした。
 ソロモンは、神殿では、へりくだって祈りました。「神をこのようなところ(人の手で造った建物)にお入れすることはできません。」と祈ることばから、彼は主(しゅ=神)がどのような方かよく知っていたと思います。(列王記8章27節)

 神殿建設のための巨額の金(きん)も、ツロの王ヒラムから買い取ったおびただしいレバノン杉も、そもそも神殿建設の施主ソロモンのいのちも、もとはといえば、神がお造りになり、ソロモンに与えて下さったものに過ぎません。

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 彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消えうせ、日の下で行なわれるすべての事において、彼らには、もはや永遠に受ける分はない。(6節)

  さあ、喜んであなたのパンを食べ、
  愉快にあなたのぶどう酒を飲め。
  神はすでにあなたの行ないを喜んでおられる。(7節)
  いつもあなたは白い着物を着、
  頭には油を絶やしてはならない。(8節)
 日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが、生きている間に、日の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。(9節)
 あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないからだ。(10節)


 ソロモンの死後、イスラエルは南ユダ王国と北イスラエル王国に分裂しました。大国が台頭してくる国際情勢の中で、もともと弱小国であったイスラエルは、迷走していきます。苦しむ王や民の前に多くの預言者が現れて、神のことばを取り次ぎました。やがて来る救い主についての預言が、繰り返されるようになりました。






伝道者の書19 人は日の下で行なわれるみわざを見きわめることはできない。人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。(伝道者の書8章節~17節)

2020年05月25日 | 聖書
 悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行なう思いで満ちている。(伝道者の書8章11節)

 これは、自分にも覚えがあります。、若いころには、赤信号でも「車が来ていないのだから、さっさと渡ればいい」とか、通ってはいけない中央分離帯を横切って近道したりしたこともあったと告白しなければなりません。すぐに交通事故に遭うわけではないし、違反チケットを切られるわけでもないと思っていたのかもしれませんが、すべては単に幸運だっただけです。

 人の目はごまかせても、神様をごまかすことはできません。聖書には、神様は私たちのすべてをごらんになっている。私たちは、かならず悪い行いを刈り取る日があると、書かれています。

 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ人への手紙6章7節)

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 罪人が、百度悪事を犯しても、長生きしている。しかし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている。(12節)
 悪者にはしあわせがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らは神を敬わないからだ。(13節)
 しかし、むなしいことが地上で行なわれている。悪者の行ないに対する報いを正しい人がその身に受け、正しい人の行ないに対する報いを悪者がその身に受けることがある。これもまた、むなしい、と私は言いたい。(14節)
 私は快楽を賛美する。日の下では、食べて、飲んで、楽しむよりほかに、人にとって良いことはない。これは、日の下で、神が人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。(15節)

 伝道者の心は惑っています。悪者にはふさわしい刈り取りがあると信じながらも、それがすぐに見えないので、心は堂々巡りをしているのです。
 その結果、「楽しむほかない」と結論を出すのです。

 快楽のすべてが悪いことだとは言えないと思います。人には快いことを求める本能があり、おいしい食べ物、おいしい水、すてきな恋愛関係、性的満足などに従ってしまう性質ゆえに、自分だけでなく子孫を繋いで生きのびているとも言えます。
 ソロモンのような恵まれた境遇の人なら、欲しいだけの快楽におぼれることもできたでしょう。

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 しかし、人間には、生物的な快楽以上の喜びを求める本能があります。「神様から承認されたい」という欲求です。
 
 私は一心に知恵を知り、昼も夜も眠らずに、地上で行なわれる人の仕事を見ようとしたとき、(16節)

 伝道者は惑いながらも、やはり知恵(神からの知恵)を求めているのです。その結果、次のように結論を出すのです。

 すべては神のみわざであることがわかった。人は日の下で行なわれるみわざを見きわめることはできない。人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることはできない。(17節)





伝道者の書18 すべての営みには時とさばきがある。(伝道者の書8章6節~11節)

2020年05月24日 | 聖書


 すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいが多いからだ。(伝道者の書8章6節)
 何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかをだれも告げることはできない。(7節)

 このような言葉を読むと、あらためて、私達は恐れに捕らわれて生きているのだと、思い知らされます。虚無的でなく、生産的に実際的に前向きに楽観的に生きるのは楽なのですが、虚無的悲観的であるのが幻想だとは言えません。だれもが、「運命のいたずら」を体験するのです。とつぜんの災害や、予定を狂わせる出来事に備えながら生きているのに、そのような人の知恵を、一瞬で押しつぶす「時」があるのです。

 先の地震東北大地震、この記事の初出は2016年5月)のような大きな災害は、私たちの平和や無事を握っているのは、私たち自身ではないと、気づかされます。保険を掛けて、家も耐震住宅にして,防災グッズで備えておくことは、もちろん意味があります。しかし、地震を恐れていては、完全な耐震構造の家の中から一歩も動くことができません。
 
 風を支配し、風を止めることのできる人はいない。死の日も支配することはできない。この戦いから放免される者はいない。悪は悪の所有者を救いえない。(8節)

 天災は人の限界を思い知らせる出来事です。でも、天災がなくても、私たちは自分の限界を思い知らされています。それは「死をまぬがれない」ことです。これは悪人も同じです。悪は自分が生きのびるためにどのような無法も行うのですが、結局のところ、悪魔に身を売っても、「自分を救う」ことはできないのです。

 私はこのすべてを見て、日の下で行なわれるいっさいのわざ、人が人を支配して、わざわいを与える時について、私の心を用いた。(9節)
 そこで、私は見た。悪者どもが葬られて、行くのを。しかし、正しい行ないの者が、聖なる方の所を去り、そうして、町で忘れられるのを。これもまた、むなしい。(10節)

 「伝道者」はソロモンだと言われていますから、王なのです。支配者である王は、世の中を俯瞰(ふかん)するように見る訓練ができています。彼は、支配できる側が、支配される側にわざわいを与える出来事を目にすることが多かったでしょう。王への訴えには、不当な目に遭った人からの告訴が引きも切らず、知恵者のソロモンでも、苦慮する事例はたくさんあったと思われます。
 王は出来る限り正しい判決で悪者に罰を与えます。ところが、わざわいに苦しめられたあと、正しい人も町から去って、けっきょく忘れ去られるようなことが起ります。

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 悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行なう思いで満ちている。(11節)

 たしかに、読み切り連載の時代劇のテレビドラマ(たとえば、水戸黄門)に出てくるようなすっきりした悪因悪果の解決を、世の中に見ることはめったにありません。死刑に値するような重い罪ほど、判決までに時間がかかっています。
 もっとうまくやる方法があるだろうと、怒る声もあるのですが、神のなさること(ご計画)は、なかなか私たち人間の短い人生では理解できないことが多いのです。
 自分を「永遠から永遠のスパン」において、見ないといけないのかもしれません。








伝道者の書17 だれが知恵ある者にふさわしいだろう。(伝道者の書8章1節~5節)

2020年05月23日 | 聖書

 だれが知恵ある者にふさわしいだろう。
 だれが事物の意義を知りえよう。
 人の知恵は、その人の顔を輝かし、
 その顔の固さを和らげる。(伝道者の書8章1節)

 この問いは、反語ですね。こんなふうに問われたら、答えはもう明快です。知恵あるものにふさわしい人間などいないのです。事物の意義を知る人間もいないのです。そんな人間が集まって社会を形成して生きていくのです。まさに、世界は不条理です。

 知恵あるものにふさわしい人間はいないとしても、それでも、知恵を求めることは、神に似せて造られた人間として、本能のようなものではないでしょうか。伝道者は神を信じる人ですから、神を信じ、恐れることを前提に論を展開しているはずです。神を恐れることによって、私たちは知恵への一歩を踏み出すのです。
 知恵を見出したと思えることは、どのような凡人にも罪びとにもあるわけです。本物の知恵は、人の顔を輝かす、こわばっていた心をなごませるのは、だれもがうなずけることだと思います。


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 私は言う。王の命令を守れ。神の誓約があるから。(2節)
 王の前からあわてて退出するな。悪事に荷担するな。王は自分の望むままを何でもするから。(3節)
 王のことばには権威がある。だれが彼に、「あなたは何をするのですか。」と言えようか。(4節)
 命令を守る者はわざわいを知らない。
 知恵ある者の心は時とさばきを知っている。(5節)

 前節から繫げて読むと、王の命令を守らなければならない理由は、あきらかです。
 人間はだれも、知恵があるとは言えないのです。一般的にも「神ならぬ身」という言葉があります。神でない者には多くの限界と制約があるのです。
 王(首長)もまた人間に過ぎませんが、それでも、王の命令を守らなければいけないのは、古代イスラエル王国では、王は神が任命しておられるとの前提があるからです。神からの権能を授けられてことを行い、人をさばくことができるのです。
 王の命令を守ることは、たんなる処世の術を超えているのです。
 王の背後に「知恵ある者=神」が付いている、もしそういう前提がなければ、王もそのような自覚がなければ、たしかに政治やさばきは立ち行かないでしょう。

 ただ、これは「理念としては」真理ですが、しょせん、王も人間です。決して神の御心のとおりは行えません。聖書にも、神の御心に反したイスラエルの王はたくさん登場します。(→列王記)
 神に叛く王が罰せられて、悲惨な末路になっていることが、逆に、王の権威の重さを語っていると思います。






伝道者の書16 人の語る言葉にいちいち心を留めてはならない。(伝道者の書7章19節~29節)

2020年05月22日 | 聖書
 知恵は町の10人の権力者よりも知恵者を力づける。(伝道者の書7章19節)
 この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。(20節)
 人の語る言葉にいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたを呪うのを聞かないためだ。(21節)
 あなた自身も他人を何度ものろったことを知っているからだ。(22節)


 自己啓発の本はよく売れるそうです。コンサルタント業も花盛りです。カウンセリングという言葉も、どこにでも見られます。
 情報がこれだけ広く拡散され、簡単に手に入る時代ですが、やはり人は、自分の行く道に迷っているのでしょう。知識は正しい情報に裏付けられるべきでしょうが、実際には、それは言葉のアヤでしかありません。正確な情報、正しい情報が、まず手に入っているかを吟味しなければなりません。新聞やネットの情報、業界紙、学会誌、広報、口コミが正確だという保証はありません。けれども、私たちは、そのようなところから情報を得るしかないのです。

 正確な情報を得ても、例えば天気予報のように――特定の人の利害と偏見に基づかないものであっても――雨の予報にどう対応するかは、人によって異なります。子供の頃よくありました。遠足の日の朝になっても決行か中止か決まらず、一応、弁当とおやつをリュックに詰めて学校に出かけたものです。子どもは、おやつがあるし弁当も特別メニューだったりしますから、それでも嬉しいのです。しかし、学校側はそうは行きません。ピクニック先で、雨に濡れて風邪をひく子供がいたら大変です。弱くてすぐに泣き出す子や、迷子になる子が出る可能性もあります。

 そんな時、どう決断するかが知恵なのでしょう。一応マニュアルはあるのでしょうが、先生たちが苦慮する苦心する場面です。

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 たかが遠足の話です。ですが、先生たちの間でも賛否が分かれたりするとき、校長先生はいかに決断を下すべきなのでしょう。
 聖書の言葉は、高邁(こうまい)すぎてすぐに役に立たないという人がいます。ところが、このようなときにも、伝道者の書7章19節以下は、とても意味のある言葉です。
 責任者は、まず神の前にへりくだって祈るのです。全能の神が示された答えを聞き取り、それを選び取った後は、口論を終わらせ、リーダーになり、実行するのです。人の言葉に心を揺らされてはならないのです。人は、わずかなことでも他人との意見の違いを呪いますし、それは、「あなたもそうでしょう」と伝道者は言っています。


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 私はこれらのいっさいを知恵によって試み、そして言った。「私は知恵あるものになりたい」と。しかし、それは私の遠く及ばないことだった。(23節)
 今あることは、遠くて非常に深い。だれがそれを見極めることができるだろう。(24節)
 私は心を転じて、知恵と道理を学び、探り出し、捜し求めた。愚かな者の悪業と狂った者の愚かさを学びとろうとした。(25節)


 「これらいっさい」の意味は、伝道者の書の最初から、著者がテーマにしている「知恵」のことでしょう。彼は、神に向かって知恵を乞いながら、やはり自分で「知恵と道理」を探り出し、捜し求めずにはいられないのです。しかし、彼はそれを、「愚かな者の悪業と狂った者の愚かさ」と言っています。

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 私は女が死よりも苦々しいことに気がついた。女はわなであり、その心は網、その手はかせである。神に喜ばれる者は女からのがれるが、罪を犯す者は女に捕えられる。(26節)
 見よ。「私は道理を見いだそうとして、一つ一つに当たり、見いだしたことは次のとおりである。」と伝道者は言う。(27節)


 伝道者は、女性との関係で、「これこそ真実」と思うことも多かったはずです。男女関係は美しい想像をかき立てる世界、人の目を開かせると思えるような景観がある世界です。
 七百人の妃と三百人のそばめを手にしていたソロモンは、官能の神秘も極めたに違いありません。
 その結果、それで、言うのです。

 私はなおも捜し求めているが、見いださない。私は千人のうちに、ひとりの男を見いだしたが、そのすべてのうちに、ひとりの女も見いださなかった。(28節)

 これでは、女性たちは立つ瀬がないと思いますが、ソロモンの結論です。

 私が見いだした次の事だけに目を留めよ。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。(29節)

 ソロモンは、有能な人材をたくさん侍らせていたでしょう。彼が何かを諮問すると、りっぱな答えが競うように王の耳に届けられたことでしょう。
 しかし、けっきょく、彼は選択できず、ため息をつくばかりの自分に気が付いたのではないでしょうか。