
お許しも得ず お名前を出すことをお許しください。
宮城県・東北中央教会の牧師・永井師が書かれた記事。
《晴考雨読》(時代を透かしてみれば)から・・・。
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新しい年を迎える度に、人々は平和を祈る人は多い。
しかし、「平和」とは、夢見るもの、他人まかせにすることが
できるようなものではない。
ただ待っているという受身の姿勢でも実現はかなわない。
新約聖書の中に「山上の説教」があり
私たちがいか生きるべきかを示す
イエス・キリストの教えが記されている個所がある。
そこでイエスは「平和をつくる者は幸いです。
その人たちは神の子供と呼ばれるから」
イエスは「平和をつくる」ことに幸せを見出すことが出来る
と教えられた。
平和の愛好者ではなくて平和をつくる者になりなさいと言われた。
しかし、「平和をつくり出すのは
戦争を行うのと同じくらい犠牲をともなう」
(平和つくりの道より)
「どこにいても(家庭、職場、近隣)
全ての人と平和を保ちなさい」(聖書より)
この言葉には 自分達のまわりから
平和をつくる重要性が示されている。
そして 犠牲もあるとも言われている
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「平和」とは・・・
「心配、もめごとなどが無くなごやかな状態」と国語辞典にあった。
一人一人が自分の回りを平和にすれば、いつか全てが平和になる。
家庭の平和をつくるのには まず私がイエスさまに
全てを委ねて(私を愛してくださり災いを益とされるお方と信じて)
自分の我を殺すことに終結されるっと感じた。
私が・・・私が・・・では共存はありえない。
「平和をつくるのは犠牲が伴う」の意味が
理解できた気がした。