昨日の聖日礼拝は 何だか不思議(あくまでも私的です)な礼拝でした。
讃美リーダーのミニストリー(奉仕)だったのですが
何日か前から曲選びをしなくてはならないのに
ギリギリまでやらなくて.....イヤ 讃美リーダーってことがピンときてなくて
何も考えていなかった....っていったほうが正しかったのです。
メッセージなさる執事のO氏から、メッセージ後の曲をリクエストされて
はじめて、少しだけシャンとした!のですが-----
おざなりな祈りをしたけど、兎に角最悪の曲選び。
コードだけ合わせて、なんとなくエエ加減に選んだって感じでした。
本当に神様に対して、真摯でない、申し訳ない讃美リーダーですよね。
約束ってゆうか O氏とはいっさいの打ち合わせしてなくて
メールでは 「はじめは無伴奏でうたい、後から奏楽が入ります」とあったので
私か勝手に、みんなをリードし、一緒に歌うんだな~っと思い込んでいたから
ぜんぜん練習もせず 本番に臨んだのです。
みんなの前に立って 「使徒信条」の告白、「主の祈り」「詩篇23編」告白
コリント13章の唱和・・・・(これも讃美リーダーの役目でリードします。)
さあ讃美に入ろうって----いつもならすぐ讃美に入っていくのですが
昨日は 「コリント13章」の中の
「・・・その時には、私が完全に知られているのと同じように、
私も完全に知ることになります」との箇所が、いつも心に響くのですが
「それをみんなに言おう」との想いがきました。
「神様には私は完全にしられてるんだから、
なんも心配せんと讃美だけしましょうね」
と偉そうなことを言って、讃美に入っていった自分に、心は驚いていました。
その時から 自分であって自分でなかったんですね・・・。
不思議な感覚がその時から、あらわれていました。
さて、メッセージも終わって、終わりの讃美の番がきたら
O氏が 「K姉妹(アタシ)に無伴奏で歌っていただいて・・・・」
「エ~~~~ッ!!独唱かい!!!!???」
そんな~~ん!!なんて言う雰囲気でないし、歌わなしゃーないやん。
前に出た途端 緊張しているわけでもなく あがっている訳でもないのに
頭から 熱い何かが体の中に入っきた感じがしました。
音をもらって 歌いだしましたが、
何とも なんとも 甘い甘い旋律が私の口から出てくるのです・・・
(しかし、これは 私だけが感じていることだと思いますが)
私・・・こんな声やったかな~?っていう想いと、4番まで全部独唱かい??
音が下がってきたんとちゃうかいな・・・とか奏楽のMさん、音下がったら
入りにくいやろうな・・・とか、グチャグチャな感情が
歌っている間中 沸いてくるんですが、
感情なんてものとは 関係なく、霊的な心地よいものが
会堂全体に広がってきているのを肌で感じていました。
私の頭の上にも 会堂のすべての上にも、主の御手がおかれ
すべての悩みとか苦しみとかから、解放させられているという想いがしました。
しかし、決してトランス状態ではなくて
あくまでも、安らかな穏やかさに包まれていたのです。
導かれる方々の頭に手を置いて祈られていた牧師の手が、思いがけず私の上に。
感謝でした。
いろいろな感情が動くなかで、主は 大いに大いに働いてくださっていました。
この世の様々なことは 努力練習や想いいかんで成功不成功が決まるみたいに
感じますが-------。
ホントはそうではないんだ!って 改めて感じました。
主にゆだねることによって
主がすべてのことを成してくださるのですね。
私たちは 陶器師(主なる神様)の手の中で陶器師の思うが侭に
こねられる、土くれなのですね。
本当に私にとっては 不思議な礼拝でしたが 神様からみたら
不思議でもなんでもない、喜んでくださっている礼拝だったのでしょうね。
本当に私みたいな エエ加減なものをも使ってくださること、感謝でした。