季節風~日々の思いを風に乗せて

喜寿になったのを機に新しいブログを始めました。日々の思いをつぶやきます。

忙しい先生たち

2022-06-01 08:52:36 | 道徳
忙しい先生たち

 道徳教育について教育現場の実態を知りたいと思い,教師になって4年目6年目の若い先生にお話を伺いました。聞きしに勝る(聞きしに勝るとは,聞いていたよりもはるかに優れているという意味だったでしょうか。確か,程度がはなはだしいという意味でも使っていいように思うのだけれど。)正に,聞きしに勝る多忙さが具体的に理解できました。
 4年目の先生がプロジェクターで映し出した画面には,「いらすとや」の困った顔のイラストとともに,今学校で対応している内容が並びました。
 ・ICT教育 ・SDGs ・環境教育 ・オンライン授業 ・NIE教育
 ・コロナウィルス感染症対策 ・プログラミング教育 ・人権教育 ・保護
  者対応 ・モンスターペアレント ・遠隔教育
 私たちの生活で大きな問題が発生すると,すぐに学校教育のなかで「指導」するように要請されます。教育内容は膨らむばかり。ここには,日々のいじめを含む生徒指導も教師の本来の仕事である「授業」(その事前準備や事後の対応)も入っていません。その二つこそ最も時間を要する教師の仕事なのですが。(その「授業」も「学力向上の名のもとに,深く考えさせることなく「早く,多く」と断片的な知識を覚えさせる内容が多くなっているように思われます。」
 6年目の先生の実態も同様です。彼女はその忙しさの中で道徳の授業の準備に時間が割けないと,本末転倒の状況に悩みます。発問は教科書会社の「指導書」に頼るほかありません。しかしそれで授業をしても,子どもたちの反応が良くないことを彼女は知っています。「授業は終わったけれど指導は終わっていない」ことに彼女は悩んでいるのです。悩んでいるだけ良心的ともいえます。そんな授業でも,指導要録や通知表に記載するために「評価」をしなければなりません。道徳の授業でいま最も先生方が困っていることです。しかし,これにもソフトがあって「道徳ポートフォリオノート」に子どもが自己評価したいくつかの項目を入力すると,文章化された「評価」が出てくるのだそうです。もちろんこの評価方法を彼女はよいとは思っていません。
 このような状況にあっても,二人の若い先生は「子どもたちが,道徳の授業が楽しいと言ってくれた時がとても嬉しい」と顔を輝かせました。そんな時の授業とは,十分な時間をかけて教材研究をし,吟味した発問をもとに子どもたちが異なる考えを出しあい,問題の解決に向かって話しあった授業だといいます。授業の準備にかけた時間に比例して子どもたちの反応が良くなるのです。
 法律で月の残業時間は45時間と決まっています。そんな時間で学校の業務が終わるはずがないと二人は口を揃えます。「子どものために」と真剣に考える教師ほど,心身ともにすり減らして日々の仕事をしているのです。
 二人の話を聴かせてもらった後「健康に留意してね」としか言えない私自身にも忸怩たる思いを抱きました。どのようにすれば「子どもたちのために」日々奮闘している先生をサポートできるか,OBとして改めて重い課題を突き付けられました。
  

「共に生きる」私たち

2020-05-21 09:55:42 | 道徳
 初夏の夜、少しうるんだ星空が広がっています。そんな星空を見ていたら、こんな句ができました。
   平仮名の五文字を結び星座とす 
 どんな言葉を結んだのかは内緒です。

 3年前の秋、京都の紅葉を見に出かけました。法然院に向かう途中、哲学の小道の横にある中学校の校門に石碑がありました。「共に生きる」と刻まれていました。どのような経緯でこの石碑が立ったのかは知りません。もしこの言葉がこの学校の教育目標であったのならすばらしい目標だと思いました。私が求める生き方のテーマと一致していたことを嬉しく思い、そのあとの法然院の紅葉がより輝いて見えた気がしました。

 さて、ではなぜ今、私が「共に生きる」を自らの生き方とし、また、これからの時代に生きる子どもたちに身につけてほしい資質としているのでしょうか。
今の世界、いや世界だけでなく私たちの生き方、心の中はどうなっているのでしょうか。世界の傾向は、私たち一人ひとりの心の傾向性でもあります。残念ながら、世界の現状は、私たちの心の集合体ともいえます。私たち一人ひとりの心が集まって、星の一つ一つが星座を作るように、世界を作っているのです。一人の思いが集まって星座をなすのです。
 その世界の傾向は、どんな言葉で表されるでしょう。
 それは「異質な他者への不寛容」ではないでしょうか。自分の見方や考え方、生き方、思いなど、自分とあるいは自分の所属する集団と違うものは認めない、許さない、受け入れないという傾向です。

 私たちは一人では生きられません。人それぞれに違いがあるのは当たり前なのです。だから、私たちは否応なく「異質な他者」と共に生きていかなければなりません。しかし、その他者に対しての「不寛容」~違いを認めないで排斥する状況がとても多くなっています。
 国を越えて、地球全体を一つの集合体として考えるのがグローバリズムです。逆に分断しようとするのが反グローバリズム・・自国ファースト主義をこえた自国オンリー主義 ミサイルも安保理違反であっても関係ない。盛んに仕掛ける貿易戦争。隣国との関係も難しい。移民受け入れに反対する国は多く、世界中で難民への壁は低くなりません。さらに、地球温暖化、海洋汚染によって首都が移転し、島が沈み、クジラのお腹にビニル袋やプラスティックごみがたまっていく。貿易摩擦、国防摩擦、地下資源・海洋資源の奪い合い、猛威を振るう新型コロナウィルスに対しても協力して立ち向かえない。・・・ほとんどが自国中心主義の表れです。
 世界の国は、もちろん日本も、自国の、自国民の幸せ、利害を優先するのは当然です。しかし、都合のいいところだけではつながり、それ以外は受け入れないというのはどうなのでしょう。それをグローバリズムとは言いません。ダイバーシティにも反します。
 ダイバーシティとは、人種、宗教、性別、価値観、ライフスタイル、障害等の多様性をいいます。その多様性を認めない反ダイバーシティ。
 4年前の7月の、相模原障害者施設殺傷事件の記憶はまだ消えません。「津久井やまゆり園」で発生した、刃物による大量殺人事件。「障害者は不幸しか作れない。いない方がいい」などと差別的な主張に驚愕しました。
 パパママもうしません、ごめんなさいと書いて、幼い命を奪われる。寒さに震え、胃の中に何も入っていない状態で、あるいは楽しいはずのお風呂の中で死んでゆく子どもたち。母親がパチスロをしたい、夜遊びしたい、子どもをかばえば暴力を受ける、また父親のしつけに名を借りた虐待、育児放棄、幼い自己中心性。そこに気付けない私たちの社会、手を差し伸べられない行政。
 子どもたちもまた自分とは違う、自分のグループとは違う「異質な他者」への不寛容が見られます。2年前の「道徳科」創設には、いじめ対策の意味もありました。痛ましい、子どもの自殺の裏側に潜むいじめの実態。もちろん少数ですが、それに加担する教師もいます。
 そして子どもの世界にもある壁。発達障害の子どもたちへの偏見、最近では、知能指数が非常に高い、神から与えられたという意味での「ギフテッド」という超天才の子どもたちの生きづらさが話題になっています。異質ゆえに排斥される子供たちもいます。
 共に生きる社会とは、異質な他者に対して寛容な社会を言います。お互いが違いを認めあい、多様な生き方が選択できる社会なのです。
 上皇陛下のお言葉にもそれは現れています。
島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。
                     (天皇在位三十年記念式典お言葉)
 では、この「共に生きる」社会を目指して私たちは何をすればいいのか。その方法の一つとして私は今、道徳の授業の在り方について提案しています。
 「共に生きる道徳の授業」~学校の先生方との共同研究です。今年11月に研究会開催の予定ですが、5月末現在、コロナウィルスの影響によって開催が危ぶまれています。中止になりましたらこのブログを通じて基本的な考えを発信していくつもりです。