季節風~日々の思いを風に乗せて

喜寿になったのを機に新しいブログを始めました。日々の思いをつぶやきます。

半歌仙  独吟  「 仙人掌の花 」の巻 

2020-07-24 22:51:36 | 連句
  生涯学習センターで全4回の「連歌・俳句入門」を受講したのが平成30年。蓮歌の魅力、戦国武士と蓮歌、芭蕉の連句などの内容を興味深く聞きました。その後『歌仙はすごい』(辻原登・永田和宏・長谷川櫂著)を読み、隅田川の巻の深川芭蕉庵も訪ねてみました。とはいえ、実際の「連句」がどのようなものかがわからないままに日が過ぎていき、どうしたら具体的に学べるのかと思っていた矢先「茨城県連句大会」への参加を誘われました。40名近い参加者の中で初心者は私一人。5人のグループの中に日本連句協会会長の青木秀樹先生がいらっしゃいました。「次は恋の句を七七で」とか「ここでは色を入れて詠んでみましょう」とか実に丁寧に教えていただきました。ほとんど何のことやら理解できていませんでしたが拙句も数句採っていただきました。何よりもテーブルの名酒「獺祭」を軽く飲みながらの会、すっかりその知的なゲームの雰囲気が気に入りました。
 その参加を機に、連句のグループからのお誘いをうけ、20韻を2度巻きました。とはいえ、句会や歌会ほどの頻度で連句の会が開かれるわけではありません。そこで「独吟」もありということを知り、連句大会の折にいただいた小冊子『連句しませんか』(やまぐち連句会)を頼りにその「座の仕組み」「巻き方」「句の付け方」「基本的な式目」などを学びながら半歌仙を巻いてみました。
 何しろ初めてのこと、連句を学んでいる方からのご指導をいただければ幸いです。今日一日、頭を使いながらとても楽しかったことは事実です。

半歌仙 毒吟 「仙人掌の花 の巻」 

表発句  夏   仙人掌の花や哲学倫理学
脇       夏              砂漠転がる麦藁帽子
第三   雑    勤王の志士の鳩首は蕎麦屋にて
四            雑                      昔話の味はひ深く
五           秋月         湖に映る満月紙のごと
六            秋                      糸につないだシオカラトンボ
裏一           秋            指切りを破つて友の墓参る
二            雑                        宇宙旅行に行くため貯金
三            雑恋           君の眼が声がしぐさが髪が好き
四            雑恋                   二人の腰を縛りて入水
五            雑             ジュラ紀にはステゴサウルス跋扈して
六    雑      がたんごろんと水車が回る
七    冬月   寒月に徳利抱へて平手神酒
八    冬       近き忌日に剪る寒椿
九    雑              荒れる海鎮める赤き蝋燭に
十            雑                        病院前に嬰児を捨てる
十一         花              市民バス桜吹雪に迷ひをり 
挙句         春                        うららかなるや故郷の道
   令和二年七月二十四日 首
   令和二年七月二十四日 尾

老いとエロス

2020-07-22 18:59:32 | 日記
 藤沢周平の『一茶』、吉村昭『海も暮れきる』(尾崎放哉)を読んで伝記小説の面白さを知りました。次に、以前からその生涯に興味のあった西行を瀬戸内寂聴の『白道』に読みました。皇后への思慕と心の実態をとらえようとした歌との間の細い白道を歩んだ西行。その姿が現地の踏査を踏まえての綿密な考証と豊かな想像力に支えられてビビッドに浮かび上がってきました。テレビなどでその法話を聴くことはあっても小説は読んでいませんでしたが、そのストリーテラーとしての力量に気付かされ、続いて詠んだのが『いよよ華やぐ』―閨秀俳人・鈴木真砂女をモデルとした小説。今生のいまが倖せ衣被(きぬかつぎ) 死なふかと囁かれしは蛍の夜 など、90歳を過ぎてなお、恋する女心の句を数多く残した真砂女を中心に84歳、72歳、64歳の女性たちが織り成す「生と死」をーいよよ華やぐ生と死を艶やかに描き、一気に読まされました。

 そして『手毬』。貞心尼の眼から晩年の良寛を描いた小説です。10数年前、日帰りのビッグドライブで寺泊、出雲崎を訪れたことがあります。その時に何気なく良寛記念館を観たがさほど興味は持っていませんでした。『一茶』を読んでから良寛の生き方にも興味をもち、寂聴の『手毬』を読むに至ったのです。感動したのは、最終章の場面。
 「私はつと、掛け布団を持ち上げ、良寛さまの寝床へ軀をすべりこませていた。背後からぴったり添い臥し、自分の体温で良寛さまの背をあたためた。右手を良寛さまの胴にかけ、重くないようにやわらかく抱いた。氷のように冷え切ったお脚に自分のほてっている脚をからませてあたためてあげる。良寛さまはゆっくりと軀をくつろがせたまま、私のすることを何もこばまれなかった。」
 貞心尼の無垢な献身と良寛の駘蕩たる受容に心震えました。

 読み終わっての解説はなんと吉本隆明。「解説―エロスに融ける良寛」。55年も前に、興梠のような貌をして必死に読んだ『言語にとって美とは何か』『共同幻想論』‥。この解説を書いた年は隆明の死の3年前、84歳の時になります。良寛の死を10歳も超えた年齢である隆明は老年の良寛をどう読んだのか。嬉しいことに私が感動した場面を引きながらその解説はこう結ばれています。
 「この『手毬』の作者は老いた静かなエロスが、老苦や死の病苦を鎮めうることを、こころから信じてこの作品を書いているようにおもえる。」すとんと腑に落ちる解説でした。私も喜寿。今後、俳句や短歌を読んだり詠んだりする中で「エロス」は一つのテーマになりそうです。
 さて、すでに届いている本は、寂聴が90歳の時に90歳の清少納言に乗り移って著したという『月の輪草紙』と『ここ過ぎてー白秋と三人の妻』の二冊です。これらもまた「老いとエロス」という視点で読めるのでしょうか。

教えたことと学んだこと・・・絵本から学ぶ(3)

2020-07-21 12:35:35 | 子どもの本


『さかなはさかな』(レオ・レオニ作 谷川俊太郎訳 好学社)

 池の中にすんでいたおたまじゃくしがかえるになり、池の外の世界を見てきます。それを、友だちの魚に報告します。

「どこにいってたの?」むちゅうになって さかなは たずねた。
「よのなかをみてたんだ-あっちこっち とびまわって。」かえるはいった。
「とてもかわったものを みたよ。」
「どんなもの?」さかなは たずねた。
「とりさ。」ひみつでもうちあけるように かえるはいった。「とりだよ!」 
つばさと二ほんあしをもち、いろんないろをしたとりのことを かれははなした。
かえるがはなすにつれて、ともだちのさかなは こころのなかで おおきなはねのはえた さかなみたいなとりが とぶのをみた。

 かえるを親や教師、さかなを子どもに置き換えたらどうでしょうか。親や教師が学ばせようとしていることと、子どもが学んだことの間には、しばしばこのように乖離した事態が生じているのではないでしょうか。子どものわかり方と大人のそれは違うのです。「何度話したらわかるの」「だから言ったでしょう。」と叱っても仕方がないのです。「言葉」が通じてないことが多いのですから。
  私たちは、子どものわかり方に沿って話をしなければいけないし、子どもが今何を理解し、何を理解していないかを確かめながら指導しなくてはいけないのです。


 親子の会話や授業の最後に親や教師が「わかりましたか!」と聞き、子どもたちが「わかりました」と答える。「わかりました」の言葉をもって子どもの理解を確認するのは、教える側の能力不足、自己満足に過ぎません。「わかりました」の言葉だけでは、子どもが何を、どのように理解したかは、知る由もありません。頭の中には、私たちが教えたかった「鳥」や「牝牛」とはまったく違う「魚鳥?」や「魚牛?」が思い描かれているのかもしれないのです。
 子どもに対してだけではなく、誰かに自分の思いを「伝える」ということは難しいものです。ほとんど伝わっていないという前提に立ち、伝え方を考えなければならないのです。 


挨拶距離

2020-07-12 15:17:20 | 日記
 人間がどこまで近づけば鳥が逃げるか,その距離を「逃避距離」という―中学生の頃に聞いた記憶があります。
 その距離が短いほど,文化程度が高い(?)という話だったと思います。当時,私は米を撒いた上に,ざるを棒で支えただけの罠を作り,物陰から紐を引き,すずめを捕らえて、なんと食べようとしていました。「逃避距離」の話を聞き,自分の文化程度の低さと空腹を呪ったものでした。

 さて,「挨拶距離」―私の造語です。
現役時代、その時々の勤務校で昇降口に立ち、子どもたちと挨拶を交わしました。毎日挨拶を繰り返していると、この「挨拶距離」が伸びていくのです。はじめの頃は,近づいてきても声が小さく,会釈もできない子どもがたくさんいました。仕方ないことです。新任の、人間関係もない校長(園長)が突然「おはようございます」と声をかけ始めたのですから。しかし,日がたつにつれ,子どもたちは会釈ができるようになり,少しずつ「おはようございます」の声も出始めました。

 中学校の時は、生徒主体の挨拶運動,PTAの方々の協力,教職員の声かけ・・・それらが相乗的な効果を発揮したようです。黙って私の前を通っていた生徒が,会釈をするようになり,小さいながらも声が出るようになりました。次には,離れていても私よりも先に挨拶ができるようになる。とても嬉しいことです。生徒達の元気な挨拶の声を聞くと,夏の日ざしに涼しさを感じ,冬の朝の厳しい寒さも緩んでいきました。

 「おはようございます」の声が大きくなるにつれ,「挨拶距離」は伸びていきます。
遠くからでも挨拶ができるようになってきたのです。「逃避距離」とは逆に,距離が伸びるほど「親しさ」が増していったといえるでしょう。「挨拶距離」が遠くなればなる程,「学校文化」の程度は高くなる―そう言ってもいいと思います。

 また「挨拶距離」が伸びるにつれて「逃避距離」(適切な使い方ではありませんが)は短くなります。つまり、私と子どもたちの「親密度」が増していったのです。近付いて話しかける中学生や小学生、首に飛びついてくる園児たち・・・。エプロンのポケットは子どもたちの季節のプレゼントでいっぱいになりました。桜の花びら、ヒマワリの種、キチキチバッタ、どんぐり、時にお手紙・・。

 挨拶から始め近くに触れ合えば触れ合うほど「愛着」が増していく。
ところがコロナ禍にある今は「愛着」形成が困難な時期です。登校していく子どもたちからも大きな声が聞こえません。ソーシャルディスタンスの取り方が徹底されているのでしょう。本来は、挨拶距離は遠いより近い方がいいに決まっています。肩に手を置いて話せばあたたかし なのです。でも。いくら近くても話せないのでは愛着の形成もままなりません。距離が離れていたら、話す回数を多くすればいいのかもしれない。
 そうだ、今日は電話をしよう。離れて暮らしている新一年生の孫に。

思いやりと祈り~絵本から学ぶ(2)

2020-07-06 14:41:45 | 子どもの本
絵本から学ぶ(1)の最後には次のように書きました。

思いやり~「相手の思いに沿って、その思いに共感し、その思いを共有し、その思いをともに生きようとする」ためには、まず相手に対して感謝や恩返しの気持ちを持つことが大切なのです。

 今回は、思いやりの行動が「祈り」から生まれていることを『きずついたつばさをなおすには』(ボブ・グラハム作 まつかわまゆみ訳 評論社)に沿って考えてみます。

とかいのたかいところで、まどガラスにトンとつばさがぶつかった。
 *都会に限らず、誰も自分のことだけで精いっぱいでお互いに無関心。だから目の届か
  ないビルの高い窓、そこにぶつかる翼、それも小さくトンと。小さくたって、小さな音だっ
  て傷ついているのです。幼稚園の滑り台の下、中学校の桜の樹の陰にもそんな子がい
  ます。

だれもきいていない。  
 *聴こえるものが違うのでしょう。うわさでありゴシップであり金儲けの話であり。
  子どもだって友 人の表情を見ていないことがある。
  人は聞こうとしなければ聞こえない、見ようとしなければ見えない。

いちわの鳥がおちてきた。
だれもみていない。
だれもきづかない。
 *いや、嘘です。見ないふり、気づかないふりをしているのです。面倒なことには関わらな
  い、近づかない。無関心・無理解・無感動・・。そして、みんなが言う。
  忙しい、忙しい・・
  大震災、大災害、コロナ禍、虐待、犯罪被害、性被害、家族の死、人間関係の軋
  轢、挫折体験、日々のニュースの中でも傷つく子どもたちがいるのです。

ウィルだけが・・・
 *大人ではなく子どものウィルだけが気づく。大人は、我執・偏見・羨望・欲望などで目が
  曇っているから気付かない。ウィルでありたい私たち。

つばさをいためた鳥に気がついた。
 *ウィルも翼を痛めたことがあるのでしょうか。そして、誰かに助けられたことがあるので
  しょうか。いい思い出を、あたたかな思い出を、優しく包まれた記憶を子どもにはいっぱ
  い残したい。あたたかくされた人があたたかくできるのだから。

ウィルは鳥をつれてかえった。
とれたはねはもどらないけど・・・
 *とれた羽ってなんでしょう。私たちには治せるものとそうでないものがあ る。強引に介
  入することによってより一層傷つけてしまうこともある。そっとしておくだけでもない、
  治そうとして自分の力を誇示しないのです。相手の幸せを優先するのです。何でもでき
  るという傲慢さはダメ。ウィルが両親の力を借りたように、専門家の力も必要なのです。
きずついたつばさはなおるかも。
ゆっくりやすんで・・・
ときがたって・・・・
ほら、きぼうが・・・・
 *強引に介入してはいけません。時間を限ってなにもしないことも大切。ここは、分析する
  のではなく総合的に見る、そう「物語性」の大切さです。長い時間かかって傷ついた心
  の修復には、その何倍も何十倍もの時間が必要なのです。その間は、ずっと回復を祈り
  ながら寄り添うのです。希望は傷ついた本人の瞳に宿るのです。
  ウィルも聴いてあげたのです、鳥の痛みを。だから、鳥も「話してよかった」「今
  まで言えなくて辛かった」「私が悪いのではないことがわかって安心した」と回
  復していったのでしょう。泣くことによるカタルシスもあったかもしれない。

鳥はとべるかもしれない。
 *飛べるかもしれない。飛んでほしい。傷をなおして羽ばたいてほしい、この鳥のために
  ある空に。この強い願いが「祈り」なのだと思います。
  鳥のために祈るのです。あの日、ドミンゴが日本のために「故郷」を歌ってくれたよう
  に、上皇様がお言葉を述べたように・・・。被災した少女が海に向かって鎮魂のトランペ
  ットを吹いたように・・・。自分のためでなく、誰かのために祈る祈りは通じるのです。
 
ウィルがりょうてをひろげたら・・・・。
鳥はちからづよくはばたいて、 
そらたかくとびさった。
  *子どもの傷に沿って、包むようなあたたかさで、そう「育む」という言葉の語源が「羽根
  で包む」「はくくむ」であるように、優しく子どもの「生」をいとおしみ成長させたいもの
  です。ウィルのしたように。