なぜ学校に行くのかという問いに、作家・大江健三郎氏は「自分につながる言葉を学ぶため・社会につながる言葉を学ぶため」と答えています。暗い時代だからこそ未来に希望を見出したいと考える大江氏らしい答えだと思います。(大江氏が30歳の頃、私は彼を卒論の対象に選びました。)
58歳からひらがなを学び始め、64歳で中学校の卒業証書を手にし、定時制高校1年生として学んだ65歳の女性がいます。彼女は、大学に進んでみたい、一生勉強しながらすごせたらいいなと、考えていたそうです。午前中に3時間の復習、2時半に家を出て,学校についてから始業までに2時間の自習、授業を終えて帰宅するのが夜11時半過ぎ。なぜこれほどまでにして学ぶのでしょうか。彼女は、次のように言います。
「一つずつ字を覚えて、知識が増えるでしょ。そのたびに,自分の世界が広がるんですよ。目標ができ、人生が変わりました。上を向いて歩けるようになりました。」
以前、新聞で読んだ記憶がよみがえりました。手足と言葉の不自由な女性が、一つ一つ文字の表を指して答えた,学ぶことの意味でした。「い・き・て・い・る・と・い・ろ・ん・な・ち・し・き・が・じ・ぶ・ん・の・も・の・に・な・る・か・ら・ね」
二人の女性とも学ぶ喜びにあふれています。「知識が増えれば、自分の世界が広がる」―山に登るとき、その高さが増すにつれて見えてくる景色が違うように、言葉一つの獲得によって、私たちの認識は確かに広く深くなるのです。
私は「学ぶこと・分かることは生きること」と考えます。「生きる」「分かる」とは、事物や事象や現象に触れつづけることなのです。ものやことは決してその本質を見せません。その本質をさがしつづけることが学ぶこと・分かることであり生きることだと考えます。
学ぶとは学び続けること、分かるとは分かり続けることなのです。
それにしても昨今の政治家の言葉の薄さにはあきれます。ふわふわと綿菓子をちぎって投げているようです。もともと内実がない言葉だから私たちに届きようがありません。彼らは、未来に希望を持ち、私たちにも希望を持たせるような政策を持っているのでしょうか。本質を探し続けている人ならば、あんな浅薄な言葉が遣えるはずがありません。高齢で平仮名を学び、障がいを持ちながらひらがなを学ぶ女性たちのように、認識が広く深くなっていく喜びを味わっているのでしょうか。
コロナ禍の年末、政治に、政治家に希望が持てません。