彼岸の墓参りに足を延ばし、久しぶりに川沿いの道の駅を訪ねました。
いつもは川べりまで下りて小さな魚影などを楽しむのですが、なぜかそこまでは行けないようにロープが張られていました。最近よく見かけるようになったのですが、ここでも空気を充てんしたビニル袋に入れてめだかが売られています。5匹ほど入って千数百円。餌も売られていました。
何気なく、俳句が口をつきました。春の川袋にめだか売られおり 「春の川」と「めだか」、これでは春の季重なりです。帰宅し推敲しようと春の『歳時記』を開きました。ところが「めだか」の項がありません。「めだかは春」そう思い込んでいました。子どもの頃に、小川でメダカをとったのは間違いなく春だったのですから。
有名な童謡「めだかのがっこう」の作詞者は茶木滋、昭和25年(1950)NHKから「春らしくのんびりした明るい歌」をとの依頼を受けて書いた詞だそうです。(「横須賀市ホームページ」)
めだかの学校は川のなか そっとのぞいてみてごらん
そっとのぞいてみてごらん みんなでおゆうぎしているよ
「だれが生徒か先生か」と続くこの歌は、中田喜直の作曲と相まって、私(たち)に春の新学期のほほえましい子どもたちとのダブルイメージを定着させました。
わたし(たち)と遠慮がちに書きましたが、ここで私たちが「めだかは春」と信じている決定的な証拠、はやりの言葉でエビデンスを見つけました。高野辰之作詞の童謡「春の小川」です。
春の小川は
さらさらいくよ
蝦やめだかや
小鮒の群れに
これでも「めだか」が春の季語ではないというのです。改めて『歳時記』を繙きました。朝日新聞社『鳥獣虫魚 歳時記 春夏』の「夏」の項に「目高 緋目高」がありました。「産卵期は春から夏で、高温期には何度も産卵する」これだけでは「めだか」が夏という理由はよく分りません。子規の「小鮒取る童(わらわ)べ去りて門川の河(こう)骨(ほね)の花に目高群れつつ」が載っています。「河骨」は夏の季語ですから、「めだか」も夏なのでしょう。どうも納得できません。
『ことばの歳時記』金田一春彦 でも「メダカ」が7月11日に置かれていました。最後に『カラー図説 日本大歳時記』講談社版 福田甲子雄の解説の一部「夏季には涼しさを呼ぶため、水盤や水鉢などに飼われ鑑賞される」。そうか、めだかは夏の清涼感を演出するための魚だったのです。「金魚」も夏の季語としてたててあるのは同じ意味なのでしょう。
俳句ではこのように私たちの季節感とは合わない季語があります。しかし、なぜその季語がその季節に位置づけられているのかを調べてみると、私たちの生活の変遷なども分かり、意外と面白いものです。めだかのように大きく目を見開かされます。
さて、春と夏の季語が入った駄句 春の川袋にめだか売られおり どう推敲しましょうか。