季節風~日々の思いを風に乗せて

喜寿になったのを機に新しいブログを始めました。日々の思いをつぶやきます。

戦争と蛙(3)

2022-05-27 09:45:58 | 子どもの本
 蛙の詩人と言われた草野心平。最も有名な蛙の詩は教科書にも載った「春の歌」ではないでしょうか。学習の目的を「想像する方法を学ぶ」と「二つの作品(この詩と「秋の夜の会話」)を読み比べてより深く味わう」とし、何回も授業実践をしたことを懐かしく思い出します。(多分今でもそうなのですが「想像しなさい」とは言いながら想像する方法を教えていないのではないでしょうか。)
「春のうた」の前書きです。
かえるは冬のあいだは土の中にいて春になると地上に出てきます。
そのはじめての日のうた。
  土の中での長い冬眠から覚め、たくさんのいのちが輝く地上に出てきた喜びが蛙の言葉やケルルン クックという鳴き声を通して表現されています。
  さて、草野心平はどのような状況でこの詩を書いたのか。1903年(明治36年)に福島県に生まれた草野心平は1913年(大正2年)に生まれた新美南吉とほぼ同世代です。南吉が29歳で早逝したのに比べ心平は85歳まで生きました。この「春の歌」は1928年(昭和3年)に刊行された全編が蛙の詩を集めた処女詩集『第百階級』の冒頭に置かれた詩です。
 この昭和の初めはどのような時代だったのでしょうか。1918年(大正7年)に第一次世界大戦が終結し2年後に国際連盟が発足したとは言え、まだ不安定な世界情勢だったことにかわりはありません。南吉が『二ひきのかえる』を発表した1935年(昭和10年)と「春の歌」の1928年(昭和3年)は戦争が影を落とす不安な時代だったのでしょう。
 「春の歌」とは対照的な「秋の夜の会話」から心平の心情を考えてみます。
さむいね
ああさむいね
虫がないてるね
ああ虫がないてるね
もうすぐ土の中だね
土の中はいやだね
痩せたね
君もずゐぶん痩せたね
どこがこんなに切ないんだらうね
腹だらうかね
腹とつたら死ぬだらうね
死にたくはないね
さむいね
ああ虫がないてるね

 寂寥感と言おうか哀切感と言おうか、一読して二匹の蛙の会話から切なさが伝わってきます。世界がなにやらきな臭い雰囲気になる中で、詩人もその鋭敏な嗅覚で「間もなく土の中」に入らなければならない状況を察知しているのではないでしょうか。冬眠の果てにはいのち輝く春が待っているのですが、この詩にはそのような希望は見られません。切ない腹とは何なのでしょうか。生きる源としての腹の飢餓感。いつもなら求めれば充足していた知識や人間関係が今はない。寒々とした風景の中で死におびえる二匹の蛙が見えてきます。
 新美南吉は、大きな声で戦争反対を言えない時代にあって『二匹の蛙』を書きました。草野心平もまた同じような思いで「秋の夜の会話」を書いたのではないでしょうか。同じような思いとは言いましたが、草野のそれはどうしようもなく暗く寂しく、希望が見えません。「土の中はいやだね」「さむいね」「やせたね」「死にたくはないね」・・・・・。


戦争と蛙(2)

2022-05-19 10:37:02 | 子どもの本
『二ひきのかえる』のあらすじです。
 緑の蛙と黄色の蛙、二匹の蛙がお互いの体の色を汚い色だと言い合います。相手に飛びかかったり後足で砂をかけたり。寒い風が吹いてきたので、もうすぐ冬が来ることを思い出した二匹は「春になったら勝負をつけよう」と、土の中に潜ります。やがて春。最初に目を覚ました緑の蛙が「起きたまえ、もう春だぞ」と呼びかけると緑の蛙が出てきます。「去年のけんか、わすれたか」と緑の蛙。黄色い蛙は「からだの土をあらいおとしてから」と応えます。「ラムネのようにすがすがしい水」に飛び込んで体を洗った蛙たち。眼をぱちくりさせて緑の蛙が言います。「やあ、きみの黄色は美しい」「そういえば、きみの緑だってすばらしいよ」と黄色の蛙。「もうけんかはよそう」と言い合う二匹の蛙。「よくねむったあとでは、人間でもかえるでも、きげんがよくなるものであります。」でお話しが終ります。

 重い靴音が戦争に向かっていた日本、大きな声で戦争反対を言えない時代にあって22歳の南吉はどのような思いでこの作品を書いたのでしょうか。緑の蛙と黄色い蛙、その違いを認められず自らの優位性を主張することによって争いが起こります。肌の色の違いによっても争いが起きます。それだけではありません。民族の違い、宗教の違い、国家体制の違い、文化、性差、障がいの有無・・・人間は「違い」が認められない生き物なのでしょうか。「共生」―共に生きるとはとうてい叶わない理想なのでしょうか。南吉の蛙たちは「冬眠」という休息によって、すがすがしい水で体を洗うことによって、お互いの違いを認め合うようになります。「人間でも」そうなるのだと期待を込めているようでもあります。「冷静に考えて、お互いの言い分を認め合おう」というのが、若い南吉の精一杯の戦争反対への姿勢だったのではないでしょうか。
 ゼレンスキー大統領夫人・オレーナ・ゼレンシカさんはこの作品から南吉の意図を明確に読み取ったのでしょう。人と人は、国家と国家は「違い」によって争ってはいけないーウクライナの子供たちにそのことを伝えたかったのだと思います。『ももたろう」だけでなくこの『二ひきのかえる』を読み聞かせたいと考えた夫人の思慮の深さに感銘しました。
  
   蛙で思い出したのが草野心平の詩とレオ・レオニの絵本『ぼくのだわたしのよ』です。これらの蛙も戦争と関係しているのでしょうか。



戦争と蛙(1)

2022-05-05 13:45:57 | 子どもの本
 ゼレンスキー大統領夫人オレーナ・ゼレンシカさんは脚本家でもあります。暗殺の標的になることも恐れずウクライナ国内にとどまって戦っています。
 その彼女が、視覚障害の子供たちのオーディオブックに日本の二冊の絵本を選んだそうです。『ももたろう』と『二ひきのかえる』。なぜ『ももたろう』を選んだのかは分かりそうな気がします。理不尽な外国の侵攻に負けず、子供たちにも強い意志を持って戦ってほしいとの願いが込められているのでしょう。
 『二ひきのかえる』とはどんな作品なのでしょうか。大正2年生まれ 昭和18年29歳で早逝した新美南吉が昭和10年22歳で書いた作品です。新美南吉と言えば教科書にも載っている『ごんぎつね』や上皇后様が幼い頃に感動した『でんでんむしのかなしみ』などが知られています。
 『二ひきのかえる』とはどのような作品なのか。新美南吉がこの作品を書いた昭和10年(1935年)とはどのような年だったのでしょうか。日本はこの年に対中国への和平交渉打ち切りを通告し、ドイツでは国防軍の統帥権をヒトラーが掌握します。日本が徐州を占領し「国家総動員法」が交付され、第12回オリンピック東京大会中止が決定し、世界初の核実験(プルトニウム型)が行われました。この6年後に日本は真珠湾を攻撃し太平洋戦争へと突入していきます。
    このような状況にあって若い南吉は『二ひきのかえる』にどのような思いを込め、ゼレンスキー大統領夫人はそれを読み、何をウクライナの子供たちに伝えようとしたのでしょうか。次回は作品の内容から二人の思いを考えてみます。

行動の意味を読む~子どもの本から学ぶ(13)

2021-05-06 16:06:32 | 子どもの本
 子どもの見方を改めねばならない、子どもの行いだけを見るのではなく、その裏に隠された子どもの「思い」にこそ心を寄せなければいけない。私の、子どもに対する狭い見方を大きく変えてくれた本です。

それでもかれは,さぐるような目つきでじっと見つめながら,歌いやめなかった。マイヤー先生が,もうあきらめて立ちさろうとしたそのとき,ヒルベルは,ふいに立ちあがった。そしてまるめたパンツに小便をひっかけると,びしょぬれになったのを,マイヤー先生の顔めがけてなげつけた。
マイヤー先生は,むっとした。が,にげはしなかった。マイヤー先生は,顔をまっ赤にした,頭でっかちの,やせた小人のような少年に,たじたじとなりながら,むかいあって立った。そして,いった。
「ひどいじゃないの。」
 すると,ヒルベルはけらけらと笑いだした。全身をゆさぶって笑いだした。それからいった。
「だ・け・ど・う・ま・く,あ・た・っ・た。」
 一語一語,休み休みいった。ヒルベルは,すらすらとはしゃべれなかった。

ペーター=ヘルトリング作 上田真而子訳『ヒルベルという子がいた』

 「小便をかけたパンツ」を投げつけられて怒らない大人はいないでしょう。
しかし,子どもの行為にはそれなりの意味があると、河合隼雄氏は次のように書いています。

 「ヒルベルはなぜこんなことをしたのだろう。一つの意味は明らかだ。彼は自分の「家」に侵入してきた外敵に対して反撃を加えたのである。そして,私にはもう一つの意味があるように思われる。唾や汗や大小便などは,人間にとって「分身」という意味をもっている。未開人や子どもたちの行動を観察すると,そのような意味が感じ取られることが多い。ヒルベルは,自分の「分身」を信頼し得るに足る人としてのマイヤー先生に「投げかけた」のではなかろうか。子どもたちの行為は,思いのほかに多層的な意味をもつことが多い。」

 このヒルベルに対して若いマイヤー先生はどのように対応したでしょうか。私がするであろうように怒ったでしょうか。いいえ、彼女はそうはしませんでした。
 上に書かれているように「むっとした」が逃げずに「むかいあって立った」のです。やがて、ヒルベルが寝たあと、みんなを切りきり舞いさせるヒルベルに対し、マイヤー先生はこう思うのです。「あのヒルベルって子、気を付けてあげなくちゃ。」

 私たちもまた,子どもの行いに込められた意味をしっかりと受け止めなくてはなりません。子どもの「思い」教育ですし、教育ですし、子どもの「思い」を無視して教育は成り立たないのですから。



花をかざして~子どもの本から学ぶ(11)

2021-02-01 16:17:39 | 子どもの本
『でんでんむしのかなしみ』(新美南吉)の中に「里の春・山の春」という作品があります。山の中に棲む仔鹿が「春って、どんなもの」「花ってどんなもの」かが知りたくなります。仔鹿は、「ぽオん」というお寺の鐘の音を聞き、里に下りておじいさんに桜の小枝を角に結び付けてもらいます。山に戻った仔鹿に両親が教えます。「角についているのが花だよ」「花がいっぱいさいて、きもちのよいにおいのしていたところが、春だったのさ」と。

 桜を角ならぬ髪に飾る習慣はいつごろからあったのでしょうか。「万葉集」(巻3)には次の歌があります。
 嬢子(をとめ)らが 挿頭(かざし)のために 遊士(みやびを)が 蘰(かづら)のためにと 敷き坐(ま)せる 国のはたてに 咲きにける 桜の
 花の にほひはもあなに
「桜が国の果てまでさきみち、なんと美しい色どりか」と詠うその桜は、少女がかんざしにしたり風流を解する男たちが頭に巻いたりして楽しんだのです。
梶井基次郎や坂口安吾が、桜の恐ろしいまでの生命力を書いたように、古来桜はその「たくましく」咲いて散る命をもつ花と解されていたのではないでしょう。それを簪にし頭に巻き付け、その溢れる命をおのれの体内に取り入れようとしたに違いありません。絵本の仔鹿もまた、おじいさんからたくましく育つ命を、命いっぱいの春をもらったのだと思います。

 桜に限らず花を頭に飾る習慣は昔からあったのでしょうね。もちろん梅の花なんかも。
 ももしきの大宮人は暇あれや梅を挿頭(かざ)してここに集へる 
                       「万葉集」(巻10)

 梅も桜も、日本人は変わらず愛でてきました。コノハナサクヤヒメのハナは山桜だという説もあるようです。桜は日本古来の木、梅は奈良時代に中国から渡来したと聞きます。春の花を二分する梅と桜、それに対する日本人の嗜好の移り変わりなどを考えるのも面白いかもしれません。

 仔鹿の角に飾られた桜の花から話が飛びすぎました。
 絵本は次の一文で終わります。
「それからしばらくすると、山のおくへもはるがやってきて、いろんなはながさきはじめました。」

 角落ちてはづかしげなり山の鹿  一茶