季節風~日々の思いを風に乗せて

喜寿になったのを機に新しいブログを始めました。日々の思いをつぶやきます。

幽霊と信楽の狸(2)

2021-07-26 18:49:16 | 日記
    信楽の狸の置物に意味があることを知りました。
 JAからいただいたカレンダーの7月には、狸の置物が描かれ、その各部位の持つ意味が説明されています。

 1 身につけた大きな笠は、降りかかる災難をよけるため。
 2 後ろの大きな尻尾は、終わりよければすべて良しの象徴。過去にこだわ
           らないという意味かな。
 3 提げた徳利は、人徳を身につけましょうということ。
 4 大きな目は、物事をしっかり見て判断している証。
    5 通い帳は、信用は宝ですよという意味。
    6 太っ腹なのは、大胆に決断しようぜということ。
    7 笑顔は、いつも愛想よく。
    8 大きなふぐりはお金持ち。

まあ、幽霊の姿に比べれば、狸のほうがいいかもしれませんが。なんかこれでもなあ。


幽霊と信楽の狸(1)

2021-07-22 20:53:58 | 日記
 子どもの頃「よまち」が好きでした。
町内のあちこちにある小さな神社の「夜祭」です。なぜか胡瓜をもってお参りに行く「どんりゅうさん」から始まり、毎夜のようにどこかのお宮がにぎわっていました。
  町一番の魚屋の横にもお宮がありました。そこには幽霊の絵があり、年に一度の縁日に合わせて公開されました。怖いのでよく見たことはありません。なぜか鰹節を銜えた女性の幽霊でした。
 何の本で読んだかは覚えていないのですが、あのおどろおどろしい幽霊の姿には意味があるのだそうです。長く後ろに引きずった髪の毛は、過去へのこだわり。前のめりに下がる両手は、来るかどうかわからない未来へのはかない期待、そして足がないのは、現実を踏まえしっかりと立っていないからなのだそうです。
 今でもあのお宮の夏祭りに、幽霊は公開されているのでしょうか。たとえ見ることができるとしても、見たいとは思いません。子どもの頃は、幽霊の姿がただ恐ろしかっただけです。幽霊の意味を知ってしまった今は、幽霊が自分の姿と重なります。誰だって、足元の定まらない、自分のおどろおどろしい姿を見たいとは思わないでしょうね。。



メールと手紙の違い~ある短歌から

2021-07-21 18:27:20 | 短歌
 隔月でのネット歌会に参加しています。なかなかリアル歌会には行けない身にとっては、皆さんからの批評をいただける貴重な機会です。今月も皆さんの歌稿が紹介され、それぞれに感想などを書き込み始めました。その中の一首

海峡とみちのく越えて届きたる姉のメールはリラ冷え伝ふ

「リラ冷え」の言葉を知ったのは渡辺淳一著の『リラ冷えの街』でした。「リラ冷え」とは北海道の花冷え、リラ(ライラック)の咲く頃の冷え込みを指す言葉だそうです。そのことが分からなくても「海峡とみちのく越えて」によって北海道の冷えのことだろうとの予想は立ちます。作者は関東地方在住でしょうか、はるばると姉から届いたメールに懐かしい「リラ冷え」を思い、町の情景や姉の体調なども心配しているという歌意です。しみじみとした歌だと思いました。
この歌がSNSのない時代に詠まれたとしたらどうなるのでしょうか。メールでなく電話や手紙だったらと考えてみました。

海峡とみちのく越えて届きたる姉の電話はリラ冷え伝ふ
海峡とみちのく越えて届きたる姉の手紙はリラ冷え伝ふ

電話ならば、その受話器の声に姉の声の温もりや体調を感じるでしょう。発信してから届くまでの時間はなく、リアルタイムの交流になります。そこに若干の「海峡とみちのく越え」てきている思いは入るでしょう。
さらに、手紙ならばどうでしょう。ポストに手紙を見つけた時、差し出した人を確認した時、封を切るとき、その都度気もちの揺れを感じるのではないでしょうか。これはメールでは味わえません。メールに書かれた内容と手紙の内容は同じかもしれませんが「海峡とみちのく越え」てきたと実感できるのは手紙の方がより強いのではないでしょうか。海峡や東北の山河がより目に浮かんでくるのではないでしょうか。

 海峡とみちのく越えて届きたる姉のメールはリラ冷え伝ふ

この歌はこのままでももちろんいい歌だと思います。特になおすところもないのだと思います。歌の評とは別に、SNSのない時代だったら、手紙だったらどうなるだろうとふと考えたのでした。

初めてのZoom手をふり閉ぢたるも喉に小骨の残りし気分

これは私の歌。初めてのZoom体験を詠みました。「喉に小骨の残りし気分」の比喩がいいかは検討の必要があるかと思います。この体験では、対面の協議会と比較し、うまく言えませんが、「情報伝達」には有効であっても「交流」にはどうなのかと、違和感を感じました。メールと葉書の違いに通じるものかもしれません。

お礼の手紙~歌集をいただいて

2021-07-06 19:05:50 | 短歌
 ひと時の梅雨の晴れ間のように、歌集『朝の光の中に』が射しこんできました。毎月の締め切りに何とか10首を搔き集め送っているだけの、名ばかりの会員の私などにと、驚きながら嬉しく読ませていただきました。
 河野裕子さんの「歌はドーナツのように作りなさい」の言葉に通じるのかもしれませんが、最近、永田和宏さんの「総じて、言い過ぎの歌が多い。言いたいことをわかってもらいたいという意識が強すぎる。わかってほしいと思うから、説明してしまう。」という言葉に触発されています。私の歌も俳句も「こう思う」と「観念」を詠む傾向にあり、なんとかもの(・・)そのもの(・・)、こと(・・)そのこと(・・)だけを詠もうと考えています。
 その私に痛烈に響いてきたお歌があります。以下の4首が短歌や俳句を詠む際に「事象」「現象」をしっかりと捉えることの大切さを教えてくれました。
 生け終へて数歩さがりて眺めたり花がしづかに私を見てゐる
 水にのり体やはらかに泳ぐことやうやく覚え息らくになる
 幼子が力を抜いて浮くことを覚えし時のやはらかな顔
 力ぬき水に泳げばわが内に固まりしものほどけてゆきぬ
 いけばなは花の命をもらふこと私の中に花が入り来る
 強く「観念」を前に押し出さなくても作者の「思いは」十分に伝わるのですね。そのことが「水に泳ぐ」3首に象徴されていますし、「生け花」の歌にその姿勢を読み取りました。勝手な感想ですが、歌を詠む方向を模索(それほど真剣にではないのですが)している私に大きな示唆をお与えいただきました。
 また、オノマトペの面白さ、個性的な発見にも目を開かされました。
特に俳句では私なりのオノマトペで詠みたいと思うのですが、なかなか難しいと感じています。
 たどたどと鳩の五、六羽歩みをり
 ずりりずりりと動き出すなり
 がはがはと八手の葉つぱのたてる音
 しろしろと咲く草花をつむ
 桐の花高きに咲かせのつしりと
 のつたり泳ぐマンボウのごと
 いずれも情景や様子を的確に描き出し、素敵です。
 すべてのお歌が日常の細部を丁寧に掬い取ってーそれもあたたかなまなざしでー詠まれていることに感銘を受けました。私のように浮ついている者にはない視点だと思い知らされました。
               *
 嬉しいことに全く面識のない方から歌集をお贈りいただくことがあります。すべての歌を読ませていただいた後、「あとがき」で作者のお人となりを知ります。来月から作者の歌を見つけて読むようにもなります。
 私もいつか歌集や句集が作れたらいいな。


ポリシー・ティドゥール~八街の事故に

2021-07-01 13:28:54 | 日記
   かつてインドネシア・スラバヤ市に3年間を過ごしました。
 その間子どもを叱る大声を聴いたことがなく、その穏やかな国民性に自らの気の短さを大いに反省したものです。もう一つ感心したのがインドネシア語でポリシー・ティドゥール「警察官が眠る」という意味の、道路にかまぼこ上に盛り上がった突起の存在です。高級住宅街には入口にガードマンが常駐し、スピードを出す車はまずありせん。それでも道路にはこのポリシー・ティドゥールが10メートルほどの間隔で設けられていました。たとえ、警察官が眠っていたとしても、これではスピードが出せません。凸凹道路にはばまれて、車の天井に頭を痛打するのがオチでしょう。
 下校途中の子どもの列に飲酒運転のトラックが突入するという悲惨な事故が起こりました。狭い道ゆえにガードレールの設置もままならなかったと聞きます。あのポリシー・ティドゥールがある道路だったらと思いました。酒を飲んで運転する愚行は止められないにしても、車のスピードを止めて、子どもたちの安全が守れたのではないかと残念でなりません。
   子どもの生命を守ることよりも車のスピードが優先する。この国は様々なことに「優先順位」が間違っています。