季節風~日々の思いを風に乗せて

喜寿になったのを機に新しいブログを始めました。日々の思いをつぶやきます。

半歌仙 独吟「仙人掌の花」の巻(2)

2020-08-12 20:27:45 | 連句
  先日、初めて一人での連句に挑戦し、半歌仙を巻き当ブログに載せました。その後、二つの座の連衆として招待いただき、現在歌仙、半歌仙を文音で営業中です。(座・連衆・文音・営業の使い方はこれでいいのかな。)二つの座ではいくつかの句を出して「捌き」の方からその都度ご指導をいただいています。例えば「空蝉」の巻では、表の五 月明の川面を渡る舟の影 に付ける秋の雑・3句を提出しました。 

 
〇色鳥の声花街に聴く
〇水澄む村を好きで離れず
〇秋の蝶追い峠を越えて

 
「捌き」の方から次のようなご指導がありました。
〇色鳥の声花街に聴く
 恋になりそうですね。まだオモテなので、恋は出せません。
〇水澄む村を好きで離れず
 水(川)に水は付けたくないです。村を好きで離れず、はうまく前句に付いています。季語を変えてみていただけますか。
〇秋の蝶追い峠を越えて
 舟を浮かべている川から、峠はちょっと唐突な感じがします。もう少し近い方が良いと思います。

 
  初めて知ることばかりでした!これらのご指導を基に推敲し、結果的に 鹿鳴く村を好きで離れず を採っていただきました。
このようなメールのやり取りの過程で、改めて連句の面白さを知り、勉強の必要性を感じました。連句の基本的な「式目」を学ぶため『連句・俳句季語辞典 十七字』を読んだり『日本連句連盟』のサイトおよびそこにリンクされているサイトをめぐったりして学んでいます。
 現在「恋」の二句目に苦戦中。「一連の恋にならないように」「自他場」を考えて…難しい。

 そうこうしているうちに、前回ここに発表した半歌仙・独吟「仙人掌の花」の巻のレベルの低さが恥ずかしくなってきました。次回は学んだことを基に前回の独吟を推敲、あるいは新たな発句を詠んでの半歌仙に再びチャレンジしてみることにします。


虐待・・・絵本から学ぶ(4)

2020-08-05 20:56:17 | 子どもの本
 親の虐待による子どもの死。靴を履くのが遅いから,言うことを聞かないから、育てるのに疲れたから・・・。子どものしつけだからと当然のように暴力をふるう親、好きな男に会いたいと子どもを放置する親、辛くやるせない気持ちにさせられる事件が続きます。
 親の左手は,子どもを自分の左胸に抱え心音を聞かせて安心させるためにあり,右手は抱いた子どもを敵から守る武器としてある。その手が,子どもの命を奪うために使われるなんて。
 もう20年も前のことです、2000年5月17日「児童虐待の防止などに関する法律」が成立したのは。養育者による身体的な暴行・養育の拒否や放棄・心理的虐待・性的暴行などが禁止され,虐待を発見した者の通告義務が定められました。国によっては,子どもを自動車や部屋の中に一人で放置しただけで,虐待とみなされるところもあります。それなのに日本の虐待の多さには驚きあきれるしかありません。
 高度情報社会の「闇」の部分は,自分自身で判断する力の低下であろうと,日頃から危惧しています。たくさんの情報の中で,情報が多いためにかえって自己決定を混乱させてしまうのでは,というおそれを抱いています。さまざまな場面で「本能」がこわれてしまっているとも感じます。マニュアルの氾濫が子どもを育てる「本能」をこわし,情報の洪水が命を慈しむ「本能」までも失わせる。
 一人の死は大きな悲しみです。『いつでも会える』(菊田まりこ/学習研究社)みきちゃんの犬・シロがしずかに語ります。
「みきちゃんが,いなくなった。ぼくは,いつもさみしくて,かなしくて,ふこうだった。みきちゃんに会いたかった。」
 一人の子どもの死は、すべての人にとっての重く深い悲しみです。
シロはまぶたの裏でみきちゃんに会えるけれど、それはあまりも悲しく、失われた幼い命は帰ってこない。
 死や命の軽い現代,300字もない文章とかわいい絵が,優しく,温かく,かなしく,心に沁みてきます。
 夏休みに入り、ましてコロナ禍、家の中で生活する子どもたち。外からの眼も届きにくくなることでしょう。閉ざされた空間の中で「虐待」が多くならなければいいのですが。