季節風~日々の思いを風に乗せて

喜寿になったのを機に新しいブログを始めました。日々の思いをつぶやきます。

ほたる考~真砂女の蛍

2021-06-28 14:35:59 | 俳句
      夕蛍真砂女の恋の行方かな  角川春樹

 「恋の行方」に「夕蛍」の斡旋は、蛍のとぶ軌跡をイメージさせて素敵です。ところでなぜ「真砂女」なのでしょうか。以前貴船神社で見た和泉式部の歌碑には 
     物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る
と刻まれていました。(この歌は強い恋の情念を歌ったものだと後で知りました。)「恋の行方」は真砂女でなくてもいいのではないか。激しい恋情を蛍に託して詠んだ歌はたくさんあるのではないか。そう思って探してみました。なぜか女性に優れた蛍の句が多いようです。
  ほうたるや闇が手首を掴みたり  藤田直子
  ゆるやかに着てひとと逢ふほたるの夜  桂信子
  水恋し胸に蛍を飼ひたれば  三井葉子
  蛍火に男の唇の照らさるる  折井眞琴
  じゃんけんに負けて蛍に生まれたの  池田澄子
  特に真砂女に蛍の句が多いことにも気付きました。
  死なふかと囁かれしは蛍の夜  
     蛍火や女の道をふみはづし  
  蛍の水と恋の涙は甘しとか   
  恋を得て蛍は草に沈みけり
 瀬戸内寂聴著の『いよよ華やぐ』には真砂女の恋多き人生が書かれています。こうしてみてくると角川春樹の詠んだ 夕蛍真砂女の恋の行方かな は、やはり真砂女でなければならないように思えてきました。
  手術台へ俎上の鯉として涼し
   真砂女の句には、嫋嫋という形容はふさわしくなく、小料理屋の女将をしていただけに、竹を割ったようなさっぱりとした潔さがあるようです。
 98歳で他界した真砂女、今年も蛍となって愛しい人のもとに飛んで行くのでしょうか。

ジーンズ

2021-06-05 11:18:22 | 日記
 今日は所属団体の会議がある日、今日はグループでの話し合いのある日…
 あまり迷うことなくスーツにネクタイ、あるいはブレザーにノーネクタイと服装がパターン化しています。窮屈だなとも感じます。いわゆるTPO~目的と場に応じていると思えば服装はもっとフリーであってもいいのではないか、まして間もなく齢80,服装ぐらい好きにしてもいいのではと考えました。
いや、そんな理屈はどうでもよく、単にジーンズ(昔はジーパンと言っていた)を履いてみたかったのです。
今でも2本のジーンズを持ってはいます。一本はEdwin1412,これは長くはいたのでお尻とひざの生地が薄くなっています。若い人ならあえてそれをはくのでしょうが、さすがに私は無理。もう一本はBobson bch101 柔らかめの生地に深めの股上なのではき安く重宝しています。
 これにブレザーを合わせることもできるでしょうが、今回はちょっぴりあらたまったがジーンズが欲しく、買いに出掛けました。ショッピングモールの中にLevi’sを扱っている店がありました。色やスタイルの好みなどを伝えると、若い女性の店員さんが丁寧に対応してくれました。4本ほどを試着させていただき、505で濃いめのインディゴのレギュラータイプを購入しました。
 コロナ禍がおさまったなら、このジーンズとジャケットで出かけるつもりです。マスクをつけている期間に、誰にも気づかれず髭を伸ばしました。インドネシア以来30年ぶりです。当時と違い白いひげです。ジーンズに白髭、皆さんがどんな反応をするのか楽しみです。


見る前に跳べ

2021-06-02 20:28:06 | 日記
 人はその成長過程で、さまざまなものから影響を受けます。出会った人であったり本であったり出来事であったりします。
 私は卒論の対象に選んだ作家・大江健三郎から多くの生き方を学びました。もちろんその当時は、彼がノーベル文学賞を受けることなど予想だにしていませんでした。彼が私より7つほど年上、発表した長編も『個人的な体験』が最も新しいもので作品も少なく、まして彼についての卒論などまだなく、多くの資料に当たらないで自分の考えが展開できると言う安易さから選んだ作家でした。とはいえ、何か惹かれるものがあってのめりこんだ作家には違いありません。
 私が大江健三郎からもっとも強く受けた影響-それは彼の作品名にもなっている『見る前に跳べ』という言葉の重さです。この題名は詩人・オーデンのフレーズ「LOOK IF YOU LIKE BUT YOU’LL HAVE TO LEAP」(見ていたければ見ていなさい、でも、あなたは跳ばなくてはなりません)によるものです。当時ともすれば目の前の高くもない壁に立ちすくみがちの私にとってこの言葉は衝撃的でした。それ以来、私はことに臨むときには「見る前に跳ぶこと」をモットーにしてきました。「考える前に実行する」―怖かったけれど、失敗もし友だちを失っとこともあるけれど、予想外の素晴らしい結果もたくさん得ることができました。
 実はこの考えは、日本にも古くからあったと気づきました。世阿弥の言葉「してみて よきにつくべし」―これもまた、能楽から敷衍して、まず行動することの大切さを述べていると考えられます。
 改革とは小さな変化の積み重ねであるのでしょう。新しい変化は、従来の考えにとらわれず、高い壁の前で逃げず、思い切って行動を起こすことによってしか生れません。何かが変わることは不安で、抵抗が伴います。自分の考えが変わらなくても、これまでの方法が変わらなくても、毎日は「大過なく」過ぎていくからです。
 まもなく齢80。今の「考え方」をここで留めるわけにはいきません。「共に生きる道徳授業の在り方」、その目標・内容・方法は10年かかって一応のまとまりを付けました。しかし、まだ現実の多くの授業を通しての検証をしていません。それはなかなか難しいのですけれど、教育誌などに発表されている実践例を使っても私の「仮説」は検証できるはずです。実践と理論の相互作用を通して、より理論を確かなものにしなければなりません。そのための「壁」に躊躇している時間は私にはないのです。
 と、ここまで書いてそんな理論を確かめるよりももっと大切な課題があることに気が付きました。そちらの「壁」の方が高そうですが、まずは「跳んで」みます。