季節風~日々の思いを風に乗せて

喜寿になったのを機に新しいブログを始めました。日々の思いをつぶやきます。

視点を変える(8)

2022-02-15 08:46:39 | 視点
 以下はある教育相談員の思いです。

「入学式に出席せずその後も登校していない中2の生徒がいます。外出もほとんどしていません。ゲームに熱中していて、将来はこの道で頑張っていくと話しています。ゲームの友達はいるようです。しかし、全て仮想の世界での出来事です。何か、彼が変わるきっかけはあるのだろうかと考えてしまいます。」

 この文面からは、相談員がこの中2の生徒を何とか登校という現実の世界に戻したいという切なる思いと、そのきっかけが見つからないもどかしさが滲んできます。相談員の経験がある私にもこの思いには共感できます。
 でも、この子はこのままでいいという視点・考え方はないのでしょうか。
いじめられ行きたし行けぬ春の雨 と詠んだ小林凜君は、壮絶ないじめにあって登校できず、俳句を詠むことに生きる目的を見出しました。登校したいと願っている子に対しては、その願いを障害している要素を排除する方向でサポートができます。(その「障害」の中で私が難しい問題と思うのは「学校に行く目的が分からない」と感じている子のサポートと、いわゆるヤングケアラーとして家族を世話せざるを得ない子どもたちへの対応です。)
行けないのではなく、行かないー自らの意思で不登校を選択している子どももいます。
 書道家・武田双雲さんの息子さんの智生さんは、次のように語っています。

「SDGsの活動を通して多くの人と関わっていくにつれ、毎日決まった時間に通学し、皆と同じ決まったカリキュラムで勉強をしていくことに疑問を抱くようになっていった。学外の生徒との交流や校内の規模を超えたイベントの企画など、外からの刺激が多くなって、自分のやりたいことにもっと時間をかけたいと思うようになりました。」「家で勉強をするようになって、自分の学びたいことをセレクトして勉強を進めていく方が、ダイレクトに学びにつながって効率的だと感じたんです」     (https://kidsna.com/magazine)

この智生さんの思いを後押ししたのはご両親の理解であったことは予想できます。子どもの思いに正対し、子どもの思いを大切にしようという深い理解があって子どもが自立できるのだと思います。この「共感的理解」の大切さは以下の報告書にも記されています。

「不登校とは、多様な要因・背景により、結果として不登校状態になっているということであり、その行為を「問題行動」と判断してはいけない。不登校の児童生徒が悪いという根強い偏見を払拭し、「行きたくても行けない」現状に苦しむ児童生徒とその家族に対して、「なぜ行けなくなったのか」といった原因や「どうしたら行けるか」といった方法のみを論ずるだけではなく、学校・家庭・社会が不登校児童生徒に寄り添い共感的理解と受容の姿勢を持つことが、児童生徒の自己肯定感を高めるためにも重要である。不登校児童生徒にとっても、支援してくれる周りの大人との信頼関係を構築していく過程が社会性や人間性の伸長につながり、結果として、社会的自立につながることが期待される。」  (平成28年7月 「不登校に関する調査研究協力者会議 
             不登校児童生徒への支援に関する 最終報告」) 

「行きたくない」子どもたちへの視点が欠けているのは残念ですが、自己肯定感を高める対応は同じはずです。「学校・家庭・社会が不登校児童生徒に寄り添い共感的理解と受容の姿勢を持つ」-私の研究テーマ「共に生きる」のキーワードでもあります。
 このような観点からはみて、最初に書いた不登校の生徒に対して相談員の姿勢にはどのようなものが考えられるでしょう。この生徒は「この道で頑張っていく」と言っているのですから相談員も共に「この道」を歩んではどうでしょうか。
 そのためにはこのゲームがどんなもので、ユーチューバー初め、将来どのような職業につながるのか、キャリアコンサルタントの視点も必要になるでしょう。公立図書館や学校図書館にあるゲームに関する本を紹介するのもいいかもしれません。(なければ図書館司書に買ってもらう)。何よりも一緒にゲームをしてみてはどうでしょうか。まずは人間関係を築くことが大切なのでしょう。ゲームの内容が仮想なのであって、これで生きていくというのは現実です。子どもは現実の中にいます。その現実がうまくいくようにサポートするのが相談員の役目かと考えますがいかがでしょうか。
 台湾のオードリー・タン氏(デジタル担当政務委員<閣僚>)は、病気やいじめなどが原因で転校をくり返し、14歳で学校を離れました。その後、ウェブでの学習の方が学校よりも10年ほど進んでいることに気づきます。中学を退学し、独学で学びたいことを校長先生に相談します。校長先生には様々な葛藤があったようですが退学を承認してくれました。そのタン氏が、高校や大学に行く意味を否定していないことを前提に、次のように書いています。

「すべては学習を行う本人次第です。もし自分の子どもに興味があること、あるいは解決してみたい問題があるかどうかを尋ね、子どもが熱心に「ある」と答えれば、オンラインを利用した学習方法を使えますし、まだ見つかっていないということであれば、別の学習方法を用いればいいでしょう。」
           『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』

 武田智生さんやオードリー・タン氏は特殊例なのでしょうか。まずは、義務教育や高等学校の学びを終えてからでなければ、子どもたちは自分の内部に芽生えた疑問や興味に向き合ってはいけないのでしょうか。
 小学校2年生の孫が「中学校を卒業したら舞子になる」といっています。
京都弁を話す舞妓さんのラインスタンプをプレゼントしました。毎日のように「おきばりやす」のスタンプが届きます。


視点を変える(7)

2022-02-09 19:52:22 | 視点
 そもそもなぜ「視点を変える」なのかを確認しておきましょう。

 相手を許せない・不寛容による分断は決して好ましいことではありません。国にしても個人にしても、その地域性・個別性・独自性を強く持つとともに、それらを超えた共通性をも持ち合わせることによってよりよい生き方を模索する、それが「共に生きる」の意味なのです。
                    拙論「共に生きる道徳の授業」

 私たち一人一人、また国家と国家においてもものごとの価値観は違います。しかし、世界が平和であり人々が幸せに生きるには、その違いをぶつけあい反発し合うことでなく「それらを超えた共通性」を求めあうことが要求されます。
 磯田道史氏は司馬遼太郎の史観を考察する中で以下のように書いています。

 「現代の世界は、どちらが強いか、どちらの利益を優先するかばかり議論されているように見えます。グローバル化がさらに進めば、異なる価値観や人間どうしが向き合わざるを得ない局面が増えてきます。相手よりいかに優位に立つかに汲々とするより、むしろ、相手の気持ちがわかる、共感性が高いと言った、どんな文化の違う人にも適応し理解することができる能力が重要になるはずです。」             (『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』)

 また門脇厚司氏は「社会に生きる誰もが自分の望む良き人生の実現を保証されるには、まずもって個々人の「能力の比べ合い」や「能力の競い合い」ではなく、「能力の出し合い」。あるいは「能力の寄せ合い」を実現することである。                     (『社会力を育てる』)

 この「どんな文化の違う人にも適応し理解することができる能力」や「能力の出し合い」。あるいは「能力の寄せ合い」とは、私の言葉で言えば「共に生きる力」です。それを身につけるためにはどうすればいいのか。自分の単一視点にこだわらず複数の視点でものごとを見るにはどうすればいいのか。これまでに複数視点を獲得する大切さや身につける方法などについて述べてきました。
 この稿では、「覚悟がなければ視点は変わらない」という点について考えてみます。

 視点を変え、多様性を認めるには覚悟がいるのです。
『あらしの夜に』(きむらゆういち)を読んだことがありますか。その「特別編」に狼のガブとヤギのメイが、違いを認め合うまでの葛藤が描かれています。ぶつかって、吐き出して、がまんして‥‥。不寛容を寛容に変える、この覚悟がもてなければ「共に生きる」ことは出来ません。
 動画「アンパンマン」が好きです。バイキンマン、ドキンちゃん、かばおくん、星の国のドーリー、様々なキャラクターが登場します。
中でもメロンパンナちゃんのお姉さんのロールパンナちゃんが好きです。彼女は二つのハートを持っています。彼女のテーマソングも「二つの心」です。青いハートと赤いハート。善と悪の二つがせめぎ合うのです。時にはバイキンマンにそそのかされ、妹にさえ攻撃の手を加えます。アンパンマンの正義か、バイキンマンの悪か、絶えず悩み葛藤します。私たち人間そのものです。

「共に生きる」~ダイバーシティとインクルージョン、「視点を変える」~言葉の響きはいいのですが、「共に生きる」には大変な覚悟がいるのです。私たちの心の中では絶えず自己中心性、利己心が膨らみます。他人のことはどうでもいい、自分が大事。自分と違う見方考え方があるのは当然のことなのですが、その違いが許せなくなるのです。相手にも正義があることが理解できなくなるのです。

じぶんが他者から強制を受けたくなければ、じぶんも他者に何かを強制してはならない。じぶんと思いはひどく異なっても、たとえそれがじぶんにとって不快なものであっても、その思いをそれとして尊重しなければならない。
                    『大事なものは見えにくい』
 この鷲田清一氏の言明は重要です。

「視点の交流」の場では時として受け入れられないような考えにも遭遇します。それを「知っておくことが大事」と述べるのが台湾デジタル担当政務委員(閣僚)のオードリー・タン氏です。

 たとえ自分は受け入れられないにしても、こうした異なった価値観や考え方があるということを知っておくことが、大事なのです。そういった知識がなければ、どんな考え方でも、それぞれのグループに属する人たちは、自分たちの振る舞いを自然なものだと思い、疑うことをしなくなるからです。それは想像力を閉ざしてしまうことにもつながります。
           『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』

 自分の中にある「単一視点」・自己中心性を見つめるのはつらい。それを「異なった価値観や考え方があるということを知っておくこと」を知り、「それがじぶんにとって不快なものであっても、その思いをそれとして尊重しなければならない」ことを確認する。自らの狭い視点を「複数視点」に変え、「共に生きる」覚悟が持てるでしょうか。

 思えば日本にはもともと「和」の精神があったはずです。聖徳太子をはじめ、日本人は、日本文化は、多様性を認め、包み込み、発展してきたのです。
 時代は先が見えず混沌としています。分断、格差も広がるでしょう。まず、私たち自身が「共に生きる」人間であることを決意しなければなりません。その上で、未来を生きる子どもたちも多様な視点を獲得してほしいのです。「覚悟」をもって違いを認め合いながら、不寛容を乗り越えながら、より良い生き方を模索する、志向し続ける資質を持ってほしいと希望します。


視点を変える(6)

2022-02-07 10:01:37 | 視点
 「見えるもの、また見ようとしているものに対して、われわれの脳の中にはあらかじめ「世界はこうなっている」という仮説が出来上がっている。脳は、仮説に合った素材だけを選んで集めて、像を結ぶ。そのため、いらないものは見ていない。見えているのは、欲しい情報だけといっても過言ではない。」
 (『プロフェショナルたちの脳活用法』茂木健一郎)

 困ったことに、どこまでも私の脳は「自己中心的」らしいのです。
 現在起こっている様々な地球上の課題には「自己中心的な」「単一な」視点では解決の方向性が見出せません。
今学校で行われている「生活科」以前に、私たちが「総合学習」を提案した理由もそこにありました。一つは、いくつかの教科を統合して多方面から考えること。もう一つは、一人ではなくみんなの意見を集めて考えること。
 この「多くの視点の交流」は私たちの脳の中にある「世界はこうなっている」という仮説を打ち破るための大切な方法なのです。様々なものの見方・考え方を持っている人が集まって自由に話し合う場が必要なのです。
 現下のコロナ禍にあって、経済活動の停滞や健康上の不安の増加、教育の機会の減少などの問題が山積しています。私の身のまわりで起こっている問題は「対面活動ができない」ということです。コミュニティセンターなどでは人数や時間が制約され、みんなで集まっての活動がしづらいのです。Zoomなどを使っての活動もありますが、私たち高齢者にとって全員が使えるツールではありません。会社や学校では活用されているようですが、実際に「対面」しての活動とは大きな差がありそうです。
 とはいえ、「視点の転換」はすべて対面で行わなければならないかといえばそうではありません。「読書」もまた固定化された視点を変えるには良い方法です。斉藤孝氏は、円錐の見え方が見る位置によって三角に見えたり、丸に見えたりする例をもとに、以下のように書いています。

「読書は自分と異なる視点を手に入れるのに役立ちます。意識したいのは「著者の目」になることです。自分と違う見方だなあと思っても、いったんは著者の目になったつもりで本を読む。著者の目で周りを見てみる。
 そうすることを繰り返すと、視点が重層的で多角的になります。一点に凝り固まるのでなく、厚みや深み、広がりのある視点を持つことができるのです。」(『読書する人だけがたどりつける場所』)

 「著者の眼になって周りを見てみる」-この読書体験の積み重ねが、現実世界を見る場合の訓練になるのかもしれません。鳥の目で地球を見ればまだまだ緑があり海もきれいに見えますが、いったん下降し、虫の目になって見れば海岸線のごみや水中のマイクロプラスティックの多さに気づくのです。単眼的な見方が複眼的な見方、ものの考え方に深まったのです。
この「~のつもりになって見る」ということは、知ろうとする対象を外側から眺めていることではなく、事物。自称。現象に没入することを意味します。ここで思い出すのは中村雄二郎氏の「棲み込み」です。

「棲み込みとは何かといえば、諸部分から成る全体の意味を理解しようとするとき、諸部分を外側から眺めるのではなく、その全体の中に棲み込むことである。」(『術語集』)

 単に虫の目だけでは足りないのです。虫になり地面に潜り、海岸を這い、海の水を味わい、空気を吸い込むことをしなければ「全体の意味」が姿を現さないのです。
 このように複数の視点が獲得できる読書の効用は、今手近にある数冊を開いても様々に述べられています。

「ビジネスの第一線で活躍している経営者の多くが、若いころからたくさんの本を読んでいます。読書量を蓄積しているからこそ、危機に直面した李経営者として決断を迫られたりするときに、冷静な判断ができるのだと思います。」
(『なぜ、読解力が必要なのか?』池上彰)

「自分が主人公と同じ状況に置かれたら、どうするだろうか?」自分なら、どんな対処をするだろうか?」―そうしたことを考えながら読むことは、そのまま、人生の様々なシチュエーションに対応するためのトレーニングとなる。」
                     (『本の読み方』平野啓一郎)

 尊敬する歌人であり細胞生物学者である永田和宏氏は言います。

「私たちは<自己>をいろいろな角度から見るための、複数の視線を得るために勉強をし、読書をする。それを欠くと、独りよがりの自分を抜け出すことができない。<他者>との関係性を築くことができない。」と。続けて、読書や勉強は自分だけの視線だけではもちえない<他の時間>を持つことでもあると述べます。(勉強や読書は)過去の多くの出会うということでもある。過去の時間を所有する。それもまた、自分だけでは持ちえなかった自分への視線を得ることでもあるのだろう。そんな風にして、それぞれの個人は世界と向き合うための基盤を作ってゆく。」(『知の体力』)

 これらの論述を読めば、いかに読書体験が「新たな視点・視線」の獲得に有効であるかが分かるのではないでしょうか。読書は「自己中心的」で「単一な視線」を変える契機になるのです。


視点を変える(5)

2022-02-04 19:44:21 | 視点
 1月27日朝日新聞「折々のことば」(鷲田清一)です。

 身長と体重だけ見て人物評を行うというようなことを、一般の世界では平気でやっている人がザラにいます。            西江雅之
 ものごとはいずれも意味の「多面体」であって、どの角度から見るかで異なる相貌を現すと、言語学・文化人類学者は言う。自分がいま見ているのは「事物の一例の、そのまた一側面でしかない」のに、そこから全体を滔滔と述べ立てる風潮を憂える。教育をめぐる議論はとりわけその傾向が強そう。『新「ことば」の課外授業』から

 このことは「言葉」についても言えそうです。「ものごと」になまえをつけたのが「言葉」なのですから、その人のつかう「言葉」もまた「「事物の一例の、そのまた一側面でしかない」のではないでしょうか。それぞれが一側面を見て話し合っているのですから、話はなかなかかみ合いません。「言葉は通じない」を前提として、話し合いはより慎重に「アクティブリスニング」(積極的傾聴の姿勢が必要になるのです。
 とくに子どもと話すときは、気を付けなければなりません。気を付けるのは大人の方です。子どもの先入観のないものの見方に驚かされます。
 七歳の孫となぞなぞをしました。ある「ひっかけ・いじわる問題」から私が出題しました。

机の上からペンケースを落としてしまいました。ペンケースの中には、消しゴム シャープペンシル ボールペン ものさし が入っていました。この4つの中で、命を落としたのはどれでしょう?

 答えは「シャープペン」,なぜなら「芯が出る」から「死んでる」から。答えが分かった彼女は「それはおかしい」とクレームを付けました。「ボールペンも芯が出る」というのです。「シャープペン」だけにとらわれていた私は虚を衝かれました。確かに、ノック式のボールペンは芯が出ます。ボールペンも正解なのです。
彼女の柔軟なものの見方によって、私自身の固定化された考え方を反省させられました。たかが「ことば」ひとつのことですが、以前に読んだ以下の文章を思い出しました。

「言葉とか呼称とか、そんなこと、どちらでも良いではないか」と思われる人がいるかもしれない。そういう人でも(あるいは、そういう人ほど)、実は言葉に支配されている。ここで、「支配されている」というのは、言葉の画一的なイメージで自分の印象を固着し、新しい情報、多角的な視点を放棄すること、最近流行の言葉で言えば「思考停止」である。人が思考停止をするのは、楽をするためだけれど、やっぱり問題も生じる。
(『科学的とはどういう意味か』(森博嗣)

ものごとや言葉に対しての思い込みを避けるためには、分かったつもりにならずに、疑問を持ち続けることが大切になるのです。
たかが言葉一つのことだけれど、されど言葉一つでもあるのです。一つの言葉の意味はいつまでも完結しません。その人の体験によって、新しい見方によって重みや深みを増していくのです。そうはいっても、誰もがその意味を獲得できるものとは限りません。体験と言葉の意味を「分かったつもりにならず」絶えず見直している人によってしか、新しい意味は姿を現さないだと思います。


視点を変える(4)

2022-02-02 19:14:29 | 視点
 ものの見方や考え方―視点はどのような時に変わるのでしょうか。以前の論文で私は「分かるとは、納得を伴って旧概念が新概念に変わること」と書きました。「あ、そうか」という納得は、「視点が変わった」ことを意味するします。この視点の転換はどのようにしていつ起こるのでしょうか。

 一方からだけ見ていたのでは起こりえない「視点の転換」、では多様な見方とはどんな見方を言うのでしょう。「視点」と似た言葉に「視座」「視野」があります。「物事を大局的にみるためには、この三つを行き来しないといけない」と述べるのは御立尚資氏(ボストンコンサルティンググループ シニア・アドバイザー)です。

「視点は一つで、「これは面白い切り口だな」というもの。視野はもうちょっとブロードに全体を眺めるもの。それをもっと上から俯瞰すると視座になる。ものごとを大局的にみるためには、この三つを行き来しないといけない。」(『問い続ける力』石川善樹との対談)

 俯瞰したものの見方ができた時に「分かった」という納得が生まれるのだと考えられます。しかし、ここでもどうすれば三つの見方の「行き来」ができるのかという疑問が残ります。果報は寝て待てといいますが、視点の転換も寝ていれば起こるのでしょうか。「あ、そうか」というひらめきが起こるのは「馬上・厠上・枕上」だと言います。「ユーリカ」と叫んで風呂を飛び出したアルキメデスのように、ゆったりと脳が弛緩している状態で「ひらめき」が起こるらしいのです。でも、そうなるためには、どうやら前提があるらしい。

「何もないところからアイデアが自然発生することは絶対にない」と言い切るのは脳科学者の茂木健一郎さん。
「ひらめきを生む前提となるのは、情報を集めたり、試行錯誤を繰り返したりしながら、徹底的に考えて、考えて、考え抜くこと。その段階があるからこそ、アイデアに必要なパーツが側頭葉に蓄積される。そして、その後に、“間隔遮断”に近い状態をつくることのよって、脳は蓄積されたパーツでパズルを組み立て、きらりと光るアイデアがもたらせやすくなるわけである。」(『プロフェショナルたちの脳活用法』)

  情報を不断に集めることはもとより「徹底的に考えて、考えて、考え抜くこと」が大事だと。これは「課題意識の継続」のことだと思う。いつもそのことを考えている状態になければ、側頭葉の情報との組み立てができないのです。問題を解決するにはどうすればよいのだろうかと、たえず課題意識を持ち情報を集めて考え続けることが「ひらめき」の条件なのです。この「ひらめき」が起きた時には、自分自身の考えが「俯瞰」できた時でもあるのだと考えます。
それが新しい視点、物の見方を獲得した時なのです。