季節風~日々の思いを風に乗せて

喜寿になったのを機に新しいブログを始めました。日々の思いをつぶやきます。

多様な視点

2021-05-30 16:44:16 | 視点
  単一のものの見方ではなく「多様な視点」を持ちたいと思いますが、なかなか難しい。

 中学1年のとき、親しい友人が病死しました。葬儀場で、死んだ友人と最も親しかったFが元気に笑いながら冗談を言い続け、その後しばらくその「不謹慎」が話題になりました。しかし「躁的防衛」を知った今ならFは躁状態にいなければならなかったほど辛かったのかもしれないと、違う見方ができます。
 これまで本を読み、音楽や絵画に親しみ、外国の違う文化に触れ、多様なものの見方を学んできました。教育方法の一つとして「視点の転換」を提唱し、自らの狭くなりがちな視点を変えてきたつもりです。しかし、それでもまだまだ多様なものの見方が足りないことに気付かされる日々です。
 一茶の句

 団扇の柄なめるを乳のかはり哉 

の鑑賞も同様です。

 一茶といえば 雪とけて村一ぱいのこどもかな を思い出します。一茶は俳文集『おらが春』などに子どもの句を多く残しています。掲句ですが、赤ちゃんはなんでもよく口に運び、目が離せません。まして空腹だとしたら、団扇の柄さえも舐めてしまうでしょう。まだいたいけない子どもが、母親のおっぱいを欲しがり、団扇の柄をなめているかわいらしい様子を詠んでいると鑑賞できるでしょう。
 でも、この子どもの母親が亡くなっていたとしたらどうでしょう。そして、この子を見ているのがその父親だとしたら。一転、この句はとても深い悲しみを帯びてきます。実はこの句には前書きがあります。「母に遅れたる子の哀さは」。この句が詠まれたのは一茶が還暦直前の時です。亡くなったのは「団扇の柄を」舐めている子、3男・金三郎の母、つまり一茶の妻であるきくです。きくは、金三郎を生んですぐに37歳の若さで他界しているのです。「団扇の柄」は、母を亡くした金三郎の様子を詠んだ句なのです。そしてこの子も1歳9か月で夭逝してしまいます。この子もと書きましたが、一茶はこの前に、すでに3人の子を亡くしています。長男は、生まれてわずか1か月で、その後授かった長女・さとは1歳1か月で。一茶は慟哭の句を詠みます。

   露の世は露の世ながらさりながら

 悲しみはさらに一茶を襲います。さとを亡くした翌年、次男・石次郎は、正月の鏡開きの日に、母親・きくの背なかで窒息死してしまいます。

   もう一度せめて目を明け雑煮膳

 掲句を詠む前に一茶は3人の子を亡くしているのです。子どもたちと楽しく遊んでいるイメージのある一茶ですが、彼の生涯を知って読むと~一句の背景に視点をおいて読むと~句の観賞がまた違ったものになります。   

ごきぶり(2)

2021-05-23 20:05:30 | 日記
ごきぶり(2)

前回ごきぶりが嫌いと書きましたが、今朝(2021.5.22)の新聞にごきぶりを「相棒みたいなものです」という大学院生の記事を見つけました。彼女の研究によれば、一生を朽木の中で過ごすリュウキュウクチキゴキブリのつがいは厳密な一夫一婦で、交尾時には互いの羽根を食べ合うのだそうです。両性の食べ合いは例がないとか。ごきぶりを「ゲテモノでは終わらせません」という彼女の今後の研究に期待しましょう。

とはいえ、私にとってごきぶりはごきぶり。
ごきぶりはきっと何もしない(と思う)。妻は汚いと言いますが、今の日本、コロナ禍にあっては仕方ないかもしれませんが、あまりにも潔癖すぎるではないでしょうか。除菌、抗菌グッズが増え、雑菌などに対する抵抗力がなくなっているに違いないのです。だからといって、ごきぶりを愛護せよと言うわけではないのですが、そう眼の敵にしなくてもと擁護したくもなります。

ごきぶりや何もしないと髭の言ふ 

居間の床をごきぶりが走ります。出来るだけ見なかったことにしているのですが、思わず「ごきぶりだ」と口に出てしまいました。テレビを観ていた妻が聞き逃すはずがありません。「やっつけて!」ごきぶりハンターをかけようにもみつからない。以前もごきぶりが壁に這っていたのですが、壁を叩けば壁紙が汚れます。ごきぶりハンターを捜しても見つからず、逃げられてしまいました。妻の冷たい視線はもちろん感じていましたよ。

新聞紙を丸め、いなくなっていることを期待し、椅子の下を見る。いた!一発叩きはしましたが、何しろ気持ちがこもっていないのですから、手応えはあったがすぐに逃げる。強く叩けばつぶれて体液が出る。「早く!」妻の叱咤に腕が反応します。2発3発。油虫の体型?が変わった。ティッシュで取ろうとしました。「まだ生きてる!叩いて」。確かに動いてはいますが、そのままティッシュに丸めとり、さらに叩いた新聞紙にくるみます。申し訳ないと思いながらゴミ箱に捨てました。と、妻がいう。「昨日のごきぶりだった?」 そんなに個体によって形が違うのか。妻はそれを見分けるのか。「いや、違うと思うよ。」訳もわからず、力なく答える私がいました。

油虫打つなザムザやも知れぬ 


ごきぶり(1)

2021-05-21 19:44:43 | 日記
ごきぶりが嫌い。
できれば見たくないし、遭いたくもない。壁に這っていても、ドアの隙間から入ってきても、妻が見ていない限り見ないことにします。ごきぶりがこちらを見ようとも無視。ごきぶりの何が嫌いかは明確ではないのですが、強いて言えばしたたかさ、傲岸さ、傍若無人・・・といったところでしょうか。叩いて殺すなんていやだし、できない。化けて出そうな気がする。

叩かれて毀されてなお油虫 

インドネシアにもごきぶりはいました。国産?のそれより一回りほど大きく、風格さえ漂っていました。妻がごきぶりを天敵のように扱うこともあって、メイドさんたちもごきぶりが出るとみんなで追い回していました(楽しそうに)。もちろん私は、巨大なごきぶりに内心震えもしましたが、一家のトワン(主人)としては大様に構えざるを得ません。ごきぶりよりも、天井からベッドに落ちてくるチュチャ(いもり)やトッケのほうがはるかに怖かった。トッケの姿は見たことはないが鳴き声はよく聞きました。
トッケ、トッケと低い声で鳴きます。大きな蜥蜴らしいのです。何しろコモドドラスラバヤに住んですぐ、妻はエリマキトカゲが下水溝を走る姿を見たといいます。当時日本ではテレビCMに登場してユニークなエリマキをかわいらしいと思ったものでした。しかし、実際にその地に住み、それに遭遇するとなると、可愛らしいとは思わなかったのでしょう。そんな馬鹿な、見間違いだと言ってはみても、きっといたのでしょう、見なくてよかったと胸をなで下ろしたのも事実です。

ごきぶりに話を戻します。そのごきぶりが帰国の荷物に忍び込んで、日本の自宅に現れたことがありました。このときはさすがに追い回した。インドネシアのごきぶりが子どもを産み、次々と巨大ごきぶりが増え、日本ごきぶり界の勢力地図が変わると困ると思ったからです。幸いその一匹だけでその後は見なくなりました。



行動の意味を読む~子どもの本から学ぶ(13)

2021-05-06 16:06:32 | 子どもの本
 子どもの見方を改めねばならない、子どもの行いだけを見るのではなく、その裏に隠された子どもの「思い」にこそ心を寄せなければいけない。私の、子どもに対する狭い見方を大きく変えてくれた本です。

それでもかれは,さぐるような目つきでじっと見つめながら,歌いやめなかった。マイヤー先生が,もうあきらめて立ちさろうとしたそのとき,ヒルベルは,ふいに立ちあがった。そしてまるめたパンツに小便をひっかけると,びしょぬれになったのを,マイヤー先生の顔めがけてなげつけた。
マイヤー先生は,むっとした。が,にげはしなかった。マイヤー先生は,顔をまっ赤にした,頭でっかちの,やせた小人のような少年に,たじたじとなりながら,むかいあって立った。そして,いった。
「ひどいじゃないの。」
 すると,ヒルベルはけらけらと笑いだした。全身をゆさぶって笑いだした。それからいった。
「だ・け・ど・う・ま・く,あ・た・っ・た。」
 一語一語,休み休みいった。ヒルベルは,すらすらとはしゃべれなかった。

ペーター=ヘルトリング作 上田真而子訳『ヒルベルという子がいた』

 「小便をかけたパンツ」を投げつけられて怒らない大人はいないでしょう。
しかし,子どもの行為にはそれなりの意味があると、河合隼雄氏は次のように書いています。

 「ヒルベルはなぜこんなことをしたのだろう。一つの意味は明らかだ。彼は自分の「家」に侵入してきた外敵に対して反撃を加えたのである。そして,私にはもう一つの意味があるように思われる。唾や汗や大小便などは,人間にとって「分身」という意味をもっている。未開人や子どもたちの行動を観察すると,そのような意味が感じ取られることが多い。ヒルベルは,自分の「分身」を信頼し得るに足る人としてのマイヤー先生に「投げかけた」のではなかろうか。子どもたちの行為は,思いのほかに多層的な意味をもつことが多い。」

 このヒルベルに対して若いマイヤー先生はどのように対応したでしょうか。私がするであろうように怒ったでしょうか。いいえ、彼女はそうはしませんでした。
 上に書かれているように「むっとした」が逃げずに「むかいあって立った」のです。やがて、ヒルベルが寝たあと、みんなを切りきり舞いさせるヒルベルに対し、マイヤー先生はこう思うのです。「あのヒルベルって子、気を付けてあげなくちゃ。」

 私たちもまた,子どもの行いに込められた意味をしっかりと受け止めなくてはなりません。子どもの「思い」教育ですし、教育ですし、子どもの「思い」を無視して教育は成り立たないのですから。



じゃがいも 2句(その2)

2021-05-01 09:46:55 | 俳句
新じゃがのやうな笑顔に育ちたり

 掲句は「NHK全国俳句大会」題詠(新)の部 正木ゆう子・選(秀作)に採っていただいた。「入選作品集」に続いて「賞状」が送られてきたことには驚いたが、嬉しくもあった。

 この句の背景には、幼稚園児たちと行ったじゃがいも栽培の経験がある。4月早々に植え付けて7月ごろ収穫したように記憶している。4歳児と5歳児の2クラス、海を見はるかす高台の幼稚園。近くの農地をお借りして栽培した。

 何と言っても収穫時の光景が眼に浮かぶ。茎や葉を残しておくので、子どもたちは力一杯それを引っ張るということになる。抜けたじゃがいもが転がり出る時には、子どもは大きく尻もちをついている。でも、誰も泣いたりしない。土を付けて輝いているじゃがいもと、土を付けて笑っている園児たち。子どもが笑い、じゃがいもが笑う。先生たちも笑顔、海からの風が心地よい。子どもたちと過ごしたあの幼稚園の日々を忘れることはない。

 あの子たちの笑顔は今も「新じゃが」のように輝いているだろうか。

海の見える大好きな幼稚園、3.11で大きく崩落し、廃園となった。