彼女さんのお父様からいただいた本に、鉛のくせに金をかぶせて金の面をするなと書いてあった。
若い頃は自分が金であるとうぬぼれていて、お説ごもっともと思って喜んでいたのであるが、四十代の頃、自分が鉛であることに気づき、痛いところを突かれるなあと思って腹が立ったが、アラ還になって、考えが変わった。
金には金の持ち味があり、鉄には鉄の持ち味があり、鉛には鉛の持ち味があるのである。
むしろ、私が鉛であるからこそ、必要とされる場面もあるのだ。
そんな場面では、金や鉄は何の役にもたたない。
むしろ有害無益だ。
キリスト教学で、我々被造物は、なぜ私をこのような物に作った! などと、神にいちゃもんをつけてはならないとあるが、その意味が最近わかるようになってきた。
神の計画上、私はこのように作られたのだ。
が、ヨブの受難のように、その作られた意味と現象の意味は、我々に隠されて見えることはない。
そういえば、神様は私にとって最善となるように人生の計画を練って、それを実行されておられると聞く。
ならば私をこのように作り、このような目に遭わせるのは、将来の私の幸せのためなのであろう。
一応いっておくが、私はちまたでいうところの受苦礼賛者ではないし、負け惜しみを言っているわけではない。
それに神様だって、むやみに私に苦しみを与えて喜ぶ、変態親父ではないであろう。
ちまたでいうところの、子供を虐待する変態親父では決してないのであるから。
最近親交はないが、畏友Зуккийさんなら、「よいかなικμτさん。」と、そう言ってくれることだろう。
そんなことを思ったικμτであった。
以上、ικμτ。