内心、自分が社会的ダーウィニズムによって淘汰される個体であると強く感じている。
その不吉な感じ方から逃れるために、自分の選んだ世俗的な価値を実現しようと、それこそキチガイじみた努力をするのだ。
本当に世俗的な価値の実現が目的ならば、ある程度価値が実現したところで満足する。
が、真の動機は社会から抹殺されることを恐れているのであるから、努力が強迫的なものになるのは当然だ。
自分の無能さをも確信した人々は信仰の世界、すなわち世俗的な価値の否定に入る。
元々無常観や罪悪感が信仰の動機でないから、自分の選んだ団体の本尊や教義など信じちゃいないし、献金や活動の必要も感じてはいない。
ただ、特殊な世界観を持ったグループに加入し、社会から脱落したという傷をなめ合う仲間たちと世俗的価値を追求する連中の悪口を言っていればそれで楽しいのだ。
内心はそうであっても、いや、内心がそうであるから、かつて学生運動が盛んであった頃、活動家が革命性を競い合ったように、信者は信仰の強盛性を競い合う。
そして現実での位階はどうでもよく、所属団体という第二現実での位階上昇で、自己満足するのだ。
驚くべきことに、路上生活者の中にも位階がある。
その位階によって、空き缶がたくさん落ちている地域の分配や、風雨にさらされない寝場所を分配しているのが実相だ。
群れられる能力のあるやつはそれでいい。
感受性の高い人々は、群れそのものが順位制と縄張りのある社会であることを嗅ぎ分けているから、はぐれ猿のような生き方をする。
時々社会にリンクしては、餌とパートナーを獲得し、そしてふらりと社会から去って行く人々だ。
これらのことを悲惨な生き方だと思ってはいけない。
それが彼らのギリギリの適応型なのだ。
非現実的な世俗的価値はいつの間にか甘い逃げ場所になり、政党や教団に搾取されながらもそこは居心地のいい居場所になり、路上生活やはぐれざるのような生き方でやっと安定した生活ができる人々もいるのだ。
それらの人に別な生き方をしろというのは、鳥に魚のように水の中で生きろ!魚に空を飛んで生きろ!と言っているのと全く同じで、実にありがた迷惑な話なのだ。
さて、優生保護法、今は母体保護法下の日本で障害者の数は減少しただろうか?
T4作戦後のドイツで、障害者の数は激減しただろうか?
否である。
これらのことは、確率論的なものなのだ。
隣のキーサンは、実は自分だったのかもしれないし、障害のある兄弟姉妹は、確率の問題で自分だったかもしれないのだ。
それを考えると、私はそれらの人々の辛辣な口撃を口にしたくないし、する人々からは距離を置きたい。
何やらある世界観の話から、話題は盛大にずれたが、これがいけもと節である。
許されよ。