巨大な実験室。
実験者は大衆行動学教室(仮称)と大手広告代理店。
もちろん政府の許可は得てある。
実験ツールはメディアとインターネット。
そして被験者は我々大衆だ。
そうやって上級国民は、大衆の統御の仕方を覚える。
そして大衆はそれがわかっていても、日頃の鬱憤を晴らすために踊る阿呆や見る阿呆のふりをする。
まあ、狐と狸の化かし合いだ。
ネットで炎上間違いなしのスキャンダラスな事件をマスコミがわざと垂れ流し、「正義感のある怒れるネットユーザーたち」が特定班として動き出し、下手人の個人情報を暴露する。
そして祭りと呼称されるプチマスヒステリーで、大衆の怒りをアースする。
実は二十一世紀の世界が、それまでの愛を根底に置いた統治から、憎悪を根底とした統治に変わったことに、誰も気がつかない。
そして愛を根底においた統治を信じるプロトカルチャー信者のために、申し訳程度のでっち上げられた美談をネットの片隅に載せる。
考えてもみよ。
これだけ生産性が上がった社会なのに、なぜ大衆の生活は貧しいのだ?
わざと取るに足らない局地的災害や事件を大々的に垂れ流し「重大な問題」だとタレント専門家が騒ぎ立て、大衆に不便な窮乏生活を強いる。
大衆を常に欲求不満にさせておき、怒りをエネルギー源とした統治を行うのが二十一世紀の憎悪を根底においた統治だ。
二十一世紀の市民権は、国籍などではない。
収入の多寡だ。
タワマン高層階に住み子弟を有名私立校に入れる民が貴族であり、公営住宅に住み子弟を公立学校に通わせるしかない受救貧民はアンタッチャブルだ。
小泉改革以降のあの恐怖の大量首切りキャンペーンや、就職氷河期が演出されたのはその構図を作り上げるためだ。
ちなみに実は自殺者や精神病発症者が統計上有意に増えたのは、若干のタイムラグがあるが、その頃からである。
生産性などほとんど大差ないのに、くじ引きで選ばれた哀れな生け贄が無能のレッテルを貼られ職場を追われ、そして勝ち目のない反首切り闘争で敗北を喫し、メンタルに傷害(誤字ではありません)を得て、メンタル疾患者として、職場をリタイアしたからだ。
さて、なぜマイナンバーやマイナポイントの利用のためにはスマホが必要か?
それが二十一世紀の本人が持ち運ぶ人別帳や壬申戸籍になるからだ。
まあ、今後数十年間は、通信行政とデジタル許認可行政を持つ官庁が、花形官庁になるだろう。
その頃、内閣法制局、人事局、予算局が三大政策査定部局として、官庁のドンとして官界に君臨することになるのであろうが、これは私の想像。
どうなることかは知ったこっちゃない。
以上、管内お江戸でいけもと。