聖教新聞(2015/ 3/ 8)
親子によせる詩ごころ ㉑ 詩人・エッセイスト 浜文子
時折、メディアを通し、母と娘の関係について取り上げ、いろいろ論じることが多くなりました。
こうした世の流れに暗い気分を抱きます。
このようなことを「テーマ」にすること自体が人として不健康な気がしてなりません。それを正確に書けば、母と娘の関係を一部の人たちとメディアがあえてあれこれ問題視すれば「結果として多くの人の心をあおり惑わせるようなことも生じさせないか」「人間や人生への向き合い方が、あまりにも一面的な薄っぺらなものに変質していきはしないか」といった懸念です。
一体、この世に「親」という存在に対して、ただの一つも不平や不満や、批判心などを抱かず育った人間などいるものでしょうか。もし、いればそれは親という人間を多面的に、客観的に眺める体験をせずに済んだ人かもしれません。
先日も、大手新聞に〝母親に不満を抱く女性たちのイベント〟で、会場が熱気に溢れたとの記事が大きく載りました世の中の空気全体が大人げない方向に動いていないでしょうか。社会的に見れば母と娘が断絶すれば育児や料理、掃除の仕方まで各家庭の生活文化の方法論の継承も途絶えます。そして新たな市場が出現します。「家庭料理」にも「片付け」にもその道の〝カリスマ〟たちが誕生し、心の専門家と呼ばれる方々の出番も増えていきます。
私の子どもの頃、いえ私が育児中のつい30数年前までも、「母たち」は学歴や経済力、自らの育った環境も超えて個々に自分の家庭を自力で営む力を身につけたかけがえのない存在でした。「母である」というそれだけで、子どもにとっては、「ありのままでカリスマ」だったのです。しかし子どもの成長に従い、親とは、子にとって時に反発や憎悪の対象にもなるもの。乳幼児を育ててみれば、その手間ひまのかかる育児というものの全般的な煩雑さと、非論理性は、誰でも分かること。そして残念なことにその時期の母親の忍耐や犠牲についての記憶は、子どもの側には残らないのです。子どもが身の回りのことを記憶できる頃には、不幸にして(?)母親への不満も生まれ、親の言葉や態度が刻印されてしまう訳です。
現代の女性たちは、あまりにも親を理想視していないでしょうか。
親子は「あてがいぶち」の関係です。人生において、自分の意志ではどうにもならない状況から学んでいくものの深さ、大きさを思うことです。母親に限らず他者への怨み、憎しみ、怒りは必ず何よりも本人の不快で不幸な気分を増幅させていくものです。「これが私の人生に用意されたこと」と腹をくくり、だからこそ得られたものを見据えましょう。
「親心」という、子を案じて止まぬ気持ちも今の世では極端に「支配」だの「介入」だのと言ってみせるアカデミズムの不十分な「理」のモノサシだけでは複雑な親の情趣は説けません。親はどんな時もアワレなほど子どものことを思う存在なのだということも、自分が親になれば分かるものです。
私の新刊『母の道をまっすぐに歩く』(小学館)を書き終えてみて、私の母のことや私も母になってから分かったことなど、あらためて俯瞰で人生を見つめることができました。機会があれば手にしてみてください。
母親と娘の(上記にあるような)関係について、マスコミ(特にワイドショー)が盛んに煽っている時期、父親である私でさえ苦々しく感じていました。
その時に載ったエッセーで心が動かされ、浜文子さんを注目するようになったんです。
このエッセーを家族にも読ませたいと思って、聖教新聞のこの部分をとっておいたんですが、うかつにも忘れていましたよ。
今ごろになってやっと発見できたので、せっかくだからとブログにアップしてみました。