どうやら最近の日本では、お金持ちから遠ざかる発想をする人が増えているようです。お金持ちに近づくための発想とは何なのでしょうか?
(All About)
■お金持ちから遠ざかる発想をする人が増えている?
私は最近、日本人の社会風潮に対する世論や正義感とは逆に考えた方が、よりお金持ちに近づくのではないかと感じています。
たとえば給食費の未納問題に端を発し、給食無償化という議論が進んでいます。奨学金返済苦による貧困や破産の問題に端を発し、こちらも給付型奨学金へと議論が進んでいます。
前者は低モラルの人に合わせ、後者はファイナンシャルリテラシーの低い人に合わせようとするなど、発想はより安易な方向へ進んでいる印象があるからです。
■給食費は無償化すべきか?
たとえば給食費未納問題は、口座振替かカード決済を必須にすることで解決できるでしょう(実際、そういう自治体も増えています)。それが嫌だという人は、毎年1年分の一括前払いしかできないようにする。それも嫌なら給食制度がない別の学校に行ってください、というふうにオプションを提示して選んでもらえばいい。学校側も、親への督促など教育とは無関係な雑務に煩わされることもなくなります。
そもそも給食のおかげで、親は栄養バランスを考えながら買い物をし、毎日弁当を作り、夜は弁当箱を洗うという労力から解放され、他のことをできる自由を得ているわけだから、そのくらいの強制力はあっていいと思います。値段も弁当を作るより安上がりだし。食育も教育の一環だから無償にすべきだとか、マズいとか食べ残すから払わないなどという主張は、もはや子の教育を放棄して学校に丸投げした無責任親か、学校の存在意義を否定しながら子を通わせる矛盾親の発想としか思えません。
むろん自治体の財政に余裕があるなら無償化するのも自由ですが、財政の厳しい地方では、そのしわ寄せが医療や介護やほかのことに来る可能性もあるわけです。にもかかわらず、給食を食べておきながら払わない一部の無銭飲食の親へ配慮する形で税金を投入し、多くの善意の家庭の将来の税負担が増えるという不公平さのほうが望ましいという論調は、いったい何を守ろうとしているのでしょうか。
■奨学金は給付型にすべきか?
奨学金も、名称や実質的な借金かどうかよりは、仕組みを理解して利用しているかどうか、利用する側の問題が大きいと思います。
「貸す側の問題もある」ということで制度を改善する取り組みを否定はしませんが、学校でのファイナンシャル教育を強化していこうという議論にならないのはなぜでしょうか。奨学金を借りるだけ借りて返済できないで破たんするのと、カードで買い物しまくりキャッシングもして延滞・破たんするのも、用途や名称が異なるだけで、まるで同じ構図です。
これもひとえに金融や経済の仕組みをまるで教わらないで社会に放り出されたからか、あるいは何も考えずに欲求のまま安易に利用しただけではないでしょうか。
私も高校と大学を旧・日本育英会からの奨学金で進学しましたが、親からも一種と二種の違いを教えてもらいましたし、「奨学金をもらう」という表現ではなく「奨学金を借りる」という言葉を聞いて自分なりに納得した記憶があります。
「お前だから言えるんだろ」という指摘があるかもしれませんが、私も大学卒業後は就職が決まらずフリーターをしていて極貧のため返済できませんでした。そこで返還期限猶予制度を利用して、返済開始を数年間先延ばしにしてもらいました。私が借りたのは総額300万円強で、15年ほどかけての返済なので毎月1万6000円ちょっと、それほど苦しい金額ではありません。
しかしもっと多くの金額を借りた人もいるようで、仮に600万円だと返済は月3万円を超え、これは確かに苦しいかもしれません。その場合、日本学生支援機構に相談すれば、杓子定規ではなく何か助言をもらえる可能性もあります。
【参考】日本学生支援機構
(http://www.jasso.go.jp/shogakukin/henkan_konnan/index.html)
それに、返済原資を捻出しようと思えば、方法はたくさんあります。たとえばもっと家賃の安い物件に引っ越す。礼金敷金ゼロ物件もあるし、赤帽を使えば引っ越し代も安い。外食をやめて弁当+おうちごはん。コンビニに行くのをやめる。テレビを売ってお金に換える。
あるいはスマホを解約する。そもそも昔はなかったものだから、不便にはなっても死ぬことはない。営業職でもなければ服装は毎日同じでも構わない。休日にアルバイトをしたっていい。終業後は会社の空き会議室などを使って図書館で借りてきた本を読み、帰宅してすぐ寝れば水道光熱費も浮く。
極論だと感じますか? しかし「払えない」という人は、結局「そこまでしたくない」というだけで、単に優先順位が低いのです。本気で本気なら、いくらでもアイデアや方法を思いつくはずですから。それでも「ムリ」という人は、社会的弱者というよりも、怠惰なだけでしょう。
もちろん、超絶に優秀で、でも貧しい人の進学を支えることは大変意義があります。とはいえ、優秀な人のための給付型奨学金は、昔からたいていの学校に存在していて珍しいものではありません。私が通った学校にもありましたが、私はそこまで優秀ではなかったのでもらえなかっただけです。にもかかわらず、それほど勉学に熱心でない人を税金を使ってまで進学させることが、本当に大切なことなのかどうか……。
個人に対し努力を求めるよりも、社会や仕組みのせいにするほうが簡単だし大衆に受け入れられやすい。学校でのいじめを原因とする子どもの自殺問題も、本来なら真っ先に子の異変に気づくはずの親ではなく、学校と教師だけを責めるのも同じ構図です。
■IR法可決はギャンブル依存症患者を増やす?
IR法の議論も、ギャンブル依存症問題が取り沙汰されています。しかし世界のIR(統合型リゾート)を見渡してみると、そのほとんどは高級ですから、もし日本のIRもそれら海外事例を参考に作られるとしたら、依存症になるような属性の人が繰り返し近づくような場所とはならない可能性があります。
私もラスベガスやシンガポールの高級カジノリゾートに行ったことがありますが、客はみな服装や表情もどこか余裕があり、節度を持ってカジノを「楽しんで」いるように見えました(平日に行ったからかもしれませんが、みな「カネ持ってそう」という雰囲気の客ばかりでした)。これは差別でもなんでもなく、現実問題として自己の欲求を制御できない人が高級カジノに「何度も」来られるとは思えません。
もちろんたまにニュースに流れるようにそういう人もいるのでしょうが、そんな人はたいていお金持ちですから、彼らの余裕資金を日本のために落としてくれるのはむしろ望ましいことですし、そもそもの目論見通りでしょう。
それよりも、親がパチンコに夢中で車中に子供を置きっぱなしにする熱中症事故が毎年のように起きていますから、庶民の世界のギャンブルの方が根が深いように思います。ギャンブル依存症問題は、高級とは反対の世界で起きていることには気づかないのでしょうか。
というのは私の勝手な独断と偏見ですが、何が言いたいかというと、日本人の正義感は、深く考えなくてよい、安易な方向へと解決方法を求めてるということ。給食費や奨学金のように「お金がないなら配ってしまえば万事解決」というのは、思考停止と同じです。自分で何とかしようと考えない人が、投資やビジネスで成功するでしょうか。
そこで冒頭に戻るわけですが、日本のメディアが誘導する世論や正義感のほとんどは、ますます私たちを思考停止させ、発想がより貧困へ向かっている。だから世間の正義とは逆方向へと思考を振り向けたほうが、より豊かになれるだろうというのが私の提案です。もっとも、思考のトレーニングやブログなどの炎上ネタとしては結構オツですが。
午堂 登紀雄
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