持統皇后と天武天皇の絆・強かった?それとも…
持統皇后は藤原鎌足の子・不比等と手を組んで孫の軽皇子(文武天皇)の即位への道を造り上げた人だとされ、大津皇子だけではなく天武帝の皇子を死に追い込んだように言われています。また、天武・持統の合葬墓に見られるように、二人は相愛で仲睦まじかったとされています。二人の絆の深さは、万葉集で読めるのでしょうか。
不比等の父の藤原鎌足は、天智帝の腹心の部下でありました。鎌足没後、天智帝は鎌足の息子の不比等がまだ幼かったので、叔父の藤原金を右大臣として引き上げました。藤原金は天智帝亡き後は大友皇子に仕え、壬申の乱後に斬られました。生き延びた藤原不比等は持統帝に仕え、目覚ましい出世を遂げました。
では、不比等は天智朝を滅ぼした天武朝に忠誠を誓ったのでしょうか。天武天皇の皇子達の非業の最後を見ると、藤原氏の関与は十分に考えられます。藤原氏の陰謀は持統天皇の意思だったのでしょうか。または、持統帝は藤原氏の陰謀を見過ごしたということでしょうか。気になるところですよね。
天武天皇崩御の時、持統大后の御作歌
まず、万葉集・巻二の「挽歌」持統帝が天武帝の崩御の時に詠んだ歌を見てみましょう。
天皇崩(かむあが)りましし時、大后の作らす御歌一首
159 八隅しし 我が大王の 暮(ゆう)されば 召し賜ふらし 明けくれば 問ひ賜ふらし 神(かむ)岳(おか)の 山の黄葉を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 召し賜はまし その山を 振りさけ見つつ 暮(ゆう)されば あやに哀しみ 明けくれば うらさびくらし あらたへの 衣の袖は 乾(ふ)る時もなし
世の隅々までお治めになられた我が大王は、夕方になると御覧になられただろう。明け方になれば、きっとお訊ねになられただろう、神の山の黄葉を。今日だってお尋ねになられたであろう。明日もご覧になるだろう。その山をはるか遠くに仰ぎ見ながら、夕方になると何とも悲しく、明け方になると何とも寂しい思いで暮らしているので、荒栲の喪服の袖は涙に濡れて乾く時もない。
もし帝がご健在であれば、きっと神山の黄葉を朝晩お尋ねになったであろう。が、帝は既に崩じられたので、何も問われることはない。(我が大王はもうこの世の方ではないと思いながら)、神山を仰ぎ見ると思い出して悲しい、というのです。「太后の御歌」となっているので、崩御後余り日を経ない秋の詠歌でしょう。しかし、すっかり遠くの人を恋しく思うように感じます。
次の歌は、「或本に太上天皇の御製歌二首」となっていると題詞にあります。
一書に曰く、天皇崩じたる時の太上天皇の御製歌二首
160 燃ゆる火も取りてつつみてふくろには 入ると言(い)はずやも智男雲(*)
燃えている火だって、手に取って包んで袋に入れることができるというではないか。そんなこともできるのに、何で・・・できないのか。*おも知るなくも(定説なし)
161 向南山(きたやま)にたなびく雲の青雲の星(ほし)離(さか)りゆく月を離(はな)れて
北山にたなびいている雲は、あれは帝の霊魂だろうか。あの青雲が星を離れて行く。月さえも離れて…帝の霊魂は何もかも置いて離れていかれるのか。
何度読み返しても、持統天皇の御歌も御製歌も言葉足らずで「亡き人への執着」が感じられないのです。天武帝と熱烈に愛し合っていたとは思えないのです。でも、天武帝からは大事にされたのでしたね。あまたの妃の中から、皇后に立てられたのは持統帝でしたから。
「吉野の盟約」のあと、持統帝は後宮のトップになりすべての皇子と皇女の母となったのでしたね。二人の合葬墓を見てみましょう。
野口王墓と呼ばれる八角形の陵墓です。辺りの景色も見てみましょう。
王家の谷と呼ばれるこの辺りには、高松塚古墳もあります。
貴方は、持統帝は天武帝を深く愛していたと思いますか? 万葉集を読んでいると、わたしには「どうだったのかなあ。あまり愛していなかったのかな」と思えるのですが。
どうですかね? また、明日