大宝元年(701)の紀伊国行幸は「持統天皇の別れの儀式」でした。
一首目、有間皇子が白玉に願いを懸けようと海の底の白玉を求めたという
二首目、皇子は白崎の岬の神に必ず帰って来ると言霊を懸け
三首目、みなべの浦でも鹿島の神に釣する海人を見てすぐ帰ると誓い
四首目、由良の埼でも岬の神に言霊を懸けて、同じく釣する海人を見てすぐに帰るだけという
五首目、すぐ帰るはずだった由良の埼から引き潮に難儀しながら船は遠ざかって行ってしまった
六首目、非情にも皇子は生還できなかった。残酷な結果に残された家族は泣きながら浜を彷徨った
7首目、我に返ると風のない浜に白波が寄せていた。この波を共に見る人を失ってどう生きよというのか。
八首目からは四十年後の歌になっています。では、読んでみましょう。
八首目、出立を過ぎる時、ここを再び見ることはあるまいと持統天皇は思ったのです。。
1674 我が背子が使来むかと出立のこの松原を今日か過ぎなむ
わたしの大切なあの方が使いが来るのを待っておられた出立というこの松原を、わたしは四十年も過ぎた今日、ただ通り過ぎて行くのだ。もうこの地を訪れることもないだろう。別れを告げに来たのだから、あの方の後ろ姿が今も目にちらつく。わたしの胸の奥にこの松原を留めておこう。
出立(いでたち)は、出立(でたち)神社という社の名で残っています。もう松原は有りません。しかし、有間皇子事件を留めた場所であることには違いありません。その出立の文字を見ると、深い嘆息が漏れます。ああ、皇子は帰って来なかった、のだと。
そして、持統太上天皇と文武天皇は帰路についたのでした。
また、あした