持統天皇との約束・柿本人麻呂事挙げす
「柿本人麻呂が初期万葉集の編纂者」と以前からブログに書いていました。(持統帝の霊魂に再会した人麻呂は、持統帝に聞きたいことがあった。)
紀伊国への旅は、持統天皇との思い出の地を訪ねる旅愁を求める旅ではありませんでした。その目的は、形見の地(亡き人の霊魂が漂う地)を訪ね、霊魂に触れることでした。女帝との約束を果たすべきか否か、人麻呂は女帝の霊魂に確かめに行ったのです。
「お言葉のままに、事挙げしてよろしいのでしょうか。わたくしは決心がつきかねております」
人麻呂が迷っていたのは、万葉集の編纂を続け、それを文武天皇に奏上することでした。答は「詔のままにせよ」だったのです。万葉集は、無念の最後を遂げたゆかりの人、滅ぼされてしまったゆかりの人を追慕し、その霊魂を鎮め、鎮魂歌集として末永く朝廷に伝えるために編纂されていました。
「万葉集の編纂をし、長く子孫に伝えること」それが持統帝の詔だったはずです。
人麻呂は命を賭して「事挙げ」の決心をしたのです。
万葉集巻十三 「柿本朝臣人麻呂の歌集に曰」3253~3254
3253 葦原の水穂の国は、この国を支配する神様としては言葉にして言い立てたりはしない国だ。だが、わたしはあえて言葉にして言うのだ。どうぞ何事もなくご無事で、いついつまでも真にお変わりなくと、障りもなくご無事であれば、荒磯浪のアリのように在りし時に王朝の栄を見ることができる。百重浪、千重浪のような後から後から押し寄せて来る波のように、私は何度でも事挙げする。わたしは亡き帝のために何度も何度でも事挙げする。
反歌(長歌と同じような中身を繰り返す短歌という意味)
3254 しきしまの倭の国は言霊(ことだま)のたすくる国ぞまさきく在りこそ
敷島の倭の国は、言霊の霊力によって守られた「幸く在る」國である。私は、言霊によってこの国の幸を願う。どうぞ末永く国が栄え、王朝が続きますように。
人麻呂が決心して「万葉集」を奉ろうとしたのですが、文武天皇(持統天皇の孫・42代天皇)の突然の崩御でした。
そこで、慶雲四年七月より後に、母の元明天皇(草壁皇子の妃・43代天皇)に「初期万葉集」を奉献したのです。しかし、元明天皇は激怒しました。そこに皇統の秘密が書かれていたのですから。
それは、誰にも知られていることだったと思います。が、それをわざわざ事挙げする人麻呂を許せなかったと思います。それが故に、夫の草壁皇子が苦しみ、義母の持統天皇が文武天皇のために身を挺して政を支え力尽きたことを、元明天皇は承知していました。
人麻呂は流罪になりましたが、さらに刑死となりました。
それを甘んじて受けたことが、万葉集でも読み取れるのです。人麻呂は持統天皇に殉じることを承知していました。それは、持統天皇の崩御の時に彼の心内で決めていたことだったのですから。
またあとで