十市皇女・天武朝後宮の悲劇(その1)
壬申の乱で勝利した天武天皇は、滅ぼした天智天皇の皇女達を後宮に入れました。特に有力氏族の皇女は、外に出しませんでした。
理由は、女性たちが天智帝の血統をつなぐ存在であり、皇位継承者を生む可能性があるので、高貴な血統を他に渡すことを避けたのです。壬申の乱後には、敵だった王家に仕えなければならないのですから、女性達には辛く重い束縛になったのではないでしょうか。
十市皇女(大友皇子の妃)の薨去
天武天皇と額田王の娘である十市皇女は、壬申の乱の総大将・大友皇子の妃で、皇子との間に葛野王を生んでいます。乱の後は、母の額田王と明日香へ帰り、高市皇子の妃となりました。
(高市皇子が築造した藤原宮跡・耳成山の前の森が大極殿跡)
十市皇女は天武7年(678)に薨去しましたが、突然の死でありました。
「占いにより天武帝は天神地祇を祀るために百官列をなし斎宮に出発したが、いまだ京を出ない時に十市皇女が率然病発(にわかに病おこり)宮中に薨去された」と書紀にあり、天武帝は天神地祇を祭ることはできませんでした。行列は引き返したのです。また、十市皇女の葬儀にも天武帝は臨席し「恩情をもって哀(みね)の礼を行われた」とあり、天武帝が娘のために大泣きしたというのです。
天武帝は斎宮に出発する前に宮中で娘に会っていたかも知れません。そこで「陛下、わたくしはこのような毎日に耐えることはできません。父上様、どうぞ娘のわたくしを何処かにお遣りください。わたくしは苦しくて死にたいほどでございます」と訴えたと思うのです。しかし、百官を連ねての祭りの行列は整っているのです。天武帝は泣いている娘を置いて蓋(おほみかさ)を命じたのでした。その時、十市皇女の絶望と父への恨みは頂点に達し突然の薨去となったと思うのです。天武帝は他の皇子皇女へこんな取り乱した対応をしたでしょうか。天皇の「哀の礼」とは、尋常ではありません。
十市皇女の薨去に対して、天武帝には特別の思いがあったということです。
十市皇女が亡くなった時の高市皇子の歌が、万葉集巻二・挽歌にあります。
十市皇女の薨ぜし時に、高市皇子尊の作らす歌三首
156 三諸の神の神すぎ巳具耳矣自得見監乍共い寝ぬ夜ぞ多き
みもろの みわのかむすぎ巳具耳矣自得見監乍共いねぬよぞおおき
(*読みは定説がない。いめにだにみむとすれども・いめにのみみえつつともに)
あなたはあの三輪山の神の杉のように思えた。巳具耳矣自得見監乍共 わたしはよく眠れない日が続いている。あなたを理解してやれなかったことを後悔している。
この時、十市皇女は30歳過ぎくらいで、高市皇子は24歳です。敵将の子連れの女性に若い高市皇子は近づきがたかったのでしょう。しかも、自分は壬申の乱の天武帝側の総大将でしたから、十市の夫の大友皇子を殺し、その首も見たのです。天武帝の第一皇女の異母姉に対して、後ろめたさと恐れがなかったとは言えないでしょうね。
だから、高市皇子は嘆きました。
157 神山の山辺真(ま)蘇(そ)結(ゆ)ふ短か木綿(ゆふ)かくのみからに長くと思ひき
みわやまのやまべまそゆふ みじかゆふ かくのみからに ながくとおもひき
三輪山の麓の神社の神に奉るまそ木綿(ゆふ)、それは短い木綿だった。同じように短いとは気が付かなかった、私はあなたとの暮らしは長いとばかり思っていたのだから。なんと短い月日だったのだろう。
高市皇子の後悔が伝わります。
158 山ぶきの立よそいたる山清水酌みに行かめど道のしらなく
やまぶきの たちよそひたる やましみず くみにゆかめど みちのしらなく
山吹の花が咲き乱れているという山奥の山清水を酌んであなたに捧げたいけれど、そこはこの世ではないらしく、私には道が分からない。
埋葬の後でしょうか。少し落ち着いて皇女のことを偲んでいます。
近江朝が滅んだ後、十市皇女は伊勢神宮に参詣したりして精神的再生を心がけていたのですが、明日香での生活は耐えられなかったのでしょう。思い悩んだ末の突然死だったのではないでしょうか。当然、近江朝から天武の後宮に移された女性にも不安が走ります。
十市皇女の突然の死(678)は、自死だったと思われます。
母である額田王は一人娘の死をどれほど悲しんだでしょう。
息子の葛野王は、母の死後幼いながらも自分の弱い立場が分かったに違いありません。
夫の高市皇子も異母姉を死なせた責任を感じていたでしょう。
父である天武帝にしても、宮中で自殺した娘を見て深い自責の念にかられたのです。
天智帝の皇女でありながらも生きられなかった十市の死は衝撃でした。
それで、一年後に「吉野の盟約」と言われる「新王朝の家族となる儀式」が行われたのです。
吉野の盟約は「草壁を皇太子とするための盟約」ではありませんでした。
天武帝は、「家族となろう」と呼びかけた新家族結成の儀式をしたのです。
後にも先にも、天武帝の吉野行幸はこの一回のみです。
吉野盟約の次の年に、草壁皇子に長女の氷高皇女が生まれています。
草壁は安心して、天智帝の娘の阿閇皇女と結婚したのです。
しかし、天武朝の中の火種が消えたのではありませんでした。
後宮の女性たちの悲劇はまだまだ続きます。
また明日