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柿本人麻呂が長皇子を賛美した意味

2017-10-11 17:05:36 | 65柿本朝臣人麻呂のメッセージ

やすみしし吾大王 高光る 吾日の皇子

と、柿本朝臣人麻呂が称えたのは長皇子

長皇子は、天武天皇と大江皇女(天智天皇の娘)の間に生れました。弟は弓削皇子、母の兄は川嶋皇子でした。生まれながらにして日の皇子と崇められたのでしょう。

天智帝と天武帝の血統ですからね。弓削皇子が「兄こそ皇位継承者と主張しても不思議ではありませんね。では、人麻呂の歌を読みましょう。

皇子の狩場では、鹿も鶉も身をかがめて畏れ従い、同じく臣下も畏れ多くもお仕えしているというんです。まるで、皇太子ではありませんか。

このような第一級の扱いを受けて長皇子は成長したのでしょう。すると、持統天皇も長皇子をそうとうに大事にし認めていたことになりますね。

反歌に至っては、まるで王者のようです。そして、或本の反歌に、

おほきみは神にしませば真木のたつ荒山中に海をなすかも

とあったと、万葉集はいうのです。

驚くべきことは、人麻呂の歌の意味です。

人麻呂の歌を読むかぎり、草壁皇子亡き後の持統朝の皇太子と認められていたは「長皇子だった」と考えてもおかしくありませんね。

人麻呂は十分承知して長皇子を賛美する歌を詠んだのです。

しかし、長皇子に8歳遅れて、軽皇子(文武天皇)はどんどん成長していきます。持統帝も悩んだかも知れませんね。ここで誰でも持つ疑問です。軽皇子(文武天皇)の立太子に問題はなかったのか。

天武天皇の存命中に次の極位に着くのは、草壁・大津・長・舎人・弓削皇子のうちの誰かと考えられたでしょう。五人の男子は、天智帝の皇女を母に持つ皇子達でしたから高貴な血筋でした。しかし、天武天皇崩御(686)の後、大津皇子の賜死、三年後に草壁皇子の薨去と皇太子候補がいなくなり、そして高市皇子の薨去(696)となれば、臣下は誰を指示したでしょうね。まさか、幼い軽皇子ではなかったでしょう。

持統帝の御代になって皇位継承が問題になった時、軽皇子の母は藤原宮子(不比等の娘)ですから軽皇子立太子には少し無理があったでしょう。

ですから、697年、弓削皇子は軽皇子(文武天皇・東寺14歳)立太子の時に、異議を申し立てたのです。弓削皇子は賢い皇子でしたから無理を通そうとしたのではないと思います。当たり前を正義感で指摘したのでしょう。しかし、弓削皇子の主張は通らず、三年後、彼は若い命を断たれました。母の大江皇女はあまりのショックでしょうか、半年後に亡くなりました。

長皇子は母と弟の死(699)という事態に動揺したでしょうね。

しかも、10年後、文武天皇が崩御(707)してしまいました。その為に、文武天皇の母・阿閇皇女(元明天皇)が即位しました。持統天皇と同じ道を選んだのです。そして、歴史は繰り返します。皇太子ははっきりしていません。

8年後、元明天皇の譲位・氷高内親王(文武天皇の姉)の即位(715)の前に、三人の有力皇子が薨去するのは、歴史的に見て偶然ではないですよね。

長皇子(6月)穂積皇子(7月)志貴皇子(8月)と亡くなるのですから、そして9月の氷高内親王(文武天皇の姉)の即位(715)となるのですからね。

人麻呂も既に没しているので、これらのドラマは詠めませんでした。

万葉集や続日本紀を読むかぎり、人麻呂は長皇子を皇位継承者として「高光る日の皇子」皇太子として歌を献じたと思うのです。そんな地位にあったから和銅八年(霊亀元年・715)に長皇子薨去となったと思います。

人麻呂は、若い皇子を賛美しすぎでしょう! あなたはどう思いますか。

では、また。


大王は神にしませば~人麻呂が詠んだ王朝の皇子

2017-10-10 23:13:49 | 65柿本朝臣人麻呂のメッセージ

おほきみは神にしませば~と詠まれた歌は、六首

六首の中に「大王は神にしませば天雲の雷の上に…」の歌があります。この歌の雷岳はどこなのか、下の写真の明日香の小さな丘なのか、様々に取りざたされましたね。

では、6首を見てみましょう。

王(おほきみ)は神にしませば天雲の 五百重が下に隠りたまいぬ (巻二~205)

皇(おほきみ)は神にしませば 天雲の雷(いかづち)の上に廬せるかも (巻三~235)

©皇は神にしませば 真木の立つ荒山中に海を成すかも  (巻三~241)

皇は神にしませば赤駒の腹ばう田井を京(みやこ)となしつ(巻十九~4260)

大王(おほきみ)は神にしませば 水鳥の巣だくみぬまを皇都となしつ(巻十九~4261)

これらの歌はどんな状況で詠まれたのでしょうね?

Ⓐは、「弓削皇子が薨ぜし時、置始東人(おきそめのあづまひと)の作る歌一首 ならびに短歌」という題がある「長歌」の後に置かれた「短歌」です。つまり、弓削皇子のための挽歌なのです。そこに「王は神にしませば」と使いました。

Ⓑは、巻三の冒頭歌で、人麻呂の作歌です。「天皇、雷岳に御遊(いでま)すとき、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首」とあり、歌の後に「右は或本に忍壁皇子に献ずる歌というなり。その歌に曰く、『王は神にし坐せば雲隠るいかづち山に宮敷き坐ます』」という脚が付けられています。

この天皇は誰か分かっていません。説明の文章がないからです。さて、誰でしょうね。

©は、人麻呂の長歌長皇子、狩路池にいでます時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首」の後に付けられた「反歌」の更に後に「或本の反歌一首」がありますが、其の或本の反歌として載せられているものです。

ⒹとⒺ は、「壬申年の乱平定以後の歌 二首」そして、Ⓓのあとに『右一首、大将軍贈右大臣大伴卿作』とありますから、大将軍の役職にあった大伴旅人(薨去の後に『右大臣』の称号を送られている)の作です。しかし、Ⓔは『作者未詳』とあります。

壬申の乱後の二首とはいえ、大伴旅人は壬申の乱の頃はまだ生まれたばかりで、次の作者は未詳ということですね。そうすると、「大王は神にしませば~」という言葉を造り出したのは、人麻呂でしょうかねえ。

天武天皇の皇子だけに使われた「おおきみは神にしませば」

この言葉は、天武朝と天武天皇の皇子に使われた言葉です。弓削皇子は、天武天皇と大江皇女(天智天皇の娘)の間に生まれた男子です。軽皇子(文武天皇)の立太子の時、異議を申し立てたと伝わります。兄の長皇子を皇位継承者と考えての意義申し立てだったのでしょう。そのためか、弓削皇子は若くして薨去しています。同じ年に、母の大江皇女も薨去しました。

弓削皇子は、額田王と歌のやり取りをしました。額田王も歌を返しています。

いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥 けだしや鳴きし吾が念(も)へるごと(巻二~112)

むかしを恋しがった鳥は、きっと霍公鳥でしょう。ひょっとしたら私の思いのように懐かしそうに鳴いたのでしょうね。

若い皇子には悩みも多かったことでしょう。皇子に対して、額田王は優しく接したのですね。しかし、弓削皇子は、常に身に危険を感じていたのでしょうか。自分の命が長くないことを意識していたようです。

 このような弓削皇子が薨去した時、置始東人が挽歌を詠んでいます。

後日、この歌も読んでみましょうね。


柿本人麻呂が舎人皇子に歌を献じ、警告した?

2017-10-09 00:22:52 | 65柿本朝臣人麻呂のメッセージ

柿本朝臣人麻呂が歌に込めたメッセージ

宮廷歌人とされる柿本人麻呂の歌は八十八首(長歌19・短歌69)、人麻呂歌集の歌は、三百六十九首(長歌2・短歌332・旋頭歌35)、人麻呂の歌の中(短3) 

柿本朝臣人麻呂が詠んだ歌は、計 四百六十首

このように多くの歌の中に、柿本人麻呂はどんなメッセージを込めたのでしょう。舎人皇子に献じた歌を読んでみましょう。

おや、ちょっと意味深な歌になっていますね。万葉集には叙景歌はないそうです。まして、人麻呂がただの風景を詠んだとは思えませんから、何かの事情や出来事を詠んだとすると、変な空気が漂っています。霧とか雲などは、霊魂とか人の思いとかが顕れたものだと古代の人は考えました。多武峰の山霧は藤原鎌足の霊魂なのでしょうね。すると、藤原氏側は舎人皇子を邪魔だと考えていたのですね。

舎人皇子の父は天武天皇ですし、母は新田部皇女(天智天皇の娘)ですから、高貴な出自の皇子となります。まだ幼い軽皇子には大きなライバルだったようですね。

その皇子に、人麻呂が献じた歌なのです。

この歌の通りの中身であれば、人麻呂は舎人皇子の成長を願い、その身の安全を危惧していたことになりますね。舎人皇子も十分に承知して、歌を返したと云うことでしょうか。1704・1075・1076と、三首は並べて置いてあるのです。

舎人皇子は、天武五年(676)の生まれです。人麻呂が活躍した持統朝では、藤原氏が力を発揮し始めていました。草壁皇子も、天武天皇が愛した大津皇子も既にこの世の人ではありません。草壁皇子の忘れ形見の軽皇子(文武天皇)は、天武一二年(683)の生まれで、舎人皇子より八歳ほど年下でした。藤原氏としても焦ったことでしょう。舎人皇子が成人していくほどに、不穏な空気が漂ったということでしょうか。

 

鎌足が眠るという多武峰の談山神社の今年の春の写真です。不比等と定恵がここに鎌足の亡骸を移して祀ったと云います。ですから、多武の峯といえば、藤原氏・天智天皇の忠臣である鎌足を意味したのです。

では、舎人皇子に献じた歌を読むかぎり、人麻呂は藤原氏に対して心を許していなかったと云うことになりますね。ここは、重要ですね。

人麻呂は天智天皇を偲ぶ歌を作りましたから、天武天皇に対して気持ちに温度差があるのかと思いましたが、その皇子に対しては深い愛情を感じていたのでしょうか。

他の皇子に対してどんな歌を読んだのか、気になるところですね。

それは、今度。

 


石走る淡海国のささなみの大津宮に天の下知らしめしけむ天皇

2017-10-05 09:08:50 | 65柿本朝臣人麻呂のメッセージ

石走る淡海国のささなみの大津宮に天の下知らしめしけむ天皇

「近江の荒都を過ぎる時の柿本朝臣人麻呂の作る歌」の反歌は、有名ですね。今日は、「ささなみ」のに注目してみましょうか。上の反歌は、30・31挽歌です。

30 楽浪の思賀(しが)の辛崎幸くあれど 大宮人の船待ちかねつ

31 左散難弥乃(ささなみの)志我の大わだ淀むとも 昔の人に亦もあはめやも

ささなみの志賀の辛崎はずっとそのままであるのに、昔日の大宮人の船はいくら待っても来ることはない。

ささなみの志賀の大わだはゆったりと淀んでいる。が、昔ここで船を乗り降りした人に会うことはない。

人麻呂が詠んだ「ささなみの志賀」は、多くの人に感銘を与えたのでしょう。持統天皇がほめたに違いありません。だからこそ、他の歌人もこぞって「ささなみの志賀」を詠んだのでしょう。32,33番歌には、高市古人(黒人)が詠んだ「ささなみの滋賀」の歌が置かれています。

    高市古人(黒人)近江旧都を感傷して作る歌

32 古(いにしへ)の人にわれあれや楽浪のふるき京(みやこ)を見れば悲しき

33 楽浪の国つみ神の浦さびて荒れたる京(みやこ)見れば悲しも

高市古人は柿本人麻呂の歌に感動したのでしょう。追和するように「近江の荒都」を詠みました。

わたしが注目したいのは、持統天皇の御代の歌は、天皇御製歌「春過ぎて」の後は、人麻呂の「荒都を過ぎる歌」29・30・31番歌になり、続いて高市古人の32・33番歌となり、次は、川嶋皇子が「有間皇子を偲ぶ結び松」を詠んだ歌となる事です。川嶋皇子の次には「阿閇皇女が夫の草壁皇子を偲ぶ歌」となっていて、すべてが過去を思う歌です。

29~35番歌まで、持統天皇の新しい御代を寿ぐ歌はなく「古を追慕し追悼する歌」が続くのです。

これは何故でしょうか。なぜに、過去をこれほど懐かしむのか、慕い続けるのか、不思議に思いませんか? 34・35番歌は皇子と皇女の歌ですが、二人は共に天智天皇の子どもですから、異母兄弟なのです。裏を返せば、所縁の歌と人を並べてこぞって天智天皇を偲んでいる編集の仕方なっているようですね。よくよく考えてみると、持統天皇の「天の香具山」こそ、舒明天皇(天智の父)と天智天皇が詠んだ「神山」だったではありませんか。香具山を神山として詠んだのは、2番歌の「国見歌」と13番歌の「三山歌」でしたね。「持統天皇は初めから、天智朝を思っているのです。

   紀伊国に幸す時、川嶋皇子の作らす歌

34 白波の濱松が枝の手向け草 幾代までにか年の経ぬらむ

(日本紀に、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇紀伊国に幸すというなり)

  勢能山(せのやま)を越ゆる時、阿閇(あへ)皇女の作らす歌

35 これやこの倭にしては我戀ふる木路(きじ)に有りとふ名に負う勢能山

これらの歌は、既に紹介しています。

驚くべきことは、持統天皇の御代は、天智天皇を思い出し追悼することで始まったと云うことです。それを終えて、やっと36番歌「吉野宮に幸す時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」となって、持統天皇を寿ぐ歌になるのです。

万葉集の歌の並びは、見逃せませんね。

「ささなみの志賀」にせまりたかったけれど、話が反れました。「ささなみの」は他の時間にまわしましょう。

また、お会いします。


柿本朝臣人麻呂は天智天皇を大王とたたえた

2017-10-02 00:23:24 | 65柿本朝臣人麻呂のメッセージ

柿本朝臣人麻呂の登場

人麻呂の歌は、巻一の持統天皇の御製歌「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣乾したり天の香具山」(28番歌)の次に置かれています。持統天皇の御代になって活躍した人のようですね。

しかも、29番歌の題詞には「近江の荒都を過ぎる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」とあり、作者名より前に状況や地名が書かれていますから、研究者の説によれば「これは公的な場で詠まれた歌」ということになります。人麻呂が公的な場で詠んだのは、滅びた王朝への鎮魂歌でした。

 

それにしても

 柿本朝臣人麻呂の「朝臣」は壬申の乱で活躍した臣下に与えられた姓(かばね)です。すると、柿本氏は天武天皇側で働いていたことになります。または、近江朝を裏切って天武天皇側に乗り換えたのか、です。

そんな天武朝側の臣下である柿本朝臣人麻呂が、滅ぼした近江朝を追慕し追悼しているのです。やや違和感があります。そして、近江朝こそ畝傍に即位した神々の皇統だと歌うのです。

では、人麻呂の歌を読んでみましょうね。

「玉だすき」の「たすき」は、「うなじ」に掛けることから「うね」にかかります。神祭りをする時、掛けるものが「玉だすき」なのでしょう。

神々しい畝火山を氏山とし、麓の橿原に王朝を開いた日知王の御代から 神として顕れられた神々のことごとくが、栂の木のように次々に天の下をお治めになられたのに、その倭を置き去りにして、青丹を均したような平山(ならやま)を越え、どのようにお思いになられたから、都より遠く離れた田舎であるのに、石走る淡海の国のささなみの大津宮で天の下をお治めになられたのであろうか。その天皇の神の命の大宮は此処だと聞くけれど、大殿は此処だと云うけれど、そこは春草が生い茂っている。春霞が立ち、霞んで見える大宮処を見ると悲しいのだ。

「空みつ倭国は畝傍山の王朝から始まり、その王朝は「日知り王」として倭を統治してきた」と、王朝の始まりを述べています。すると、畝傍を氏山とする一族が倭国のはじめの支配者だったと、人麻呂は認識していたのですね。

しかし、「天智天皇は、なぜか大和を捨て淡海の大津宮に遷都した」と、近江が田舎だったこと、人心が近江遷都をいぶかったことがわかります。

「その王朝は滅び、その宮殿跡は荒れ果てている」壬申の乱から二十年ほど経っていますから、草木は茂っていたでしょう。宮跡に住む人もいなかったのです。

この長歌を聴いていたのは、もちろん持統天皇です。詩歌の言葉の一つ一つが女帝を慰めたのでしょう。持統天皇は近江の都を十分に知っているのです。大宮も、大殿も、舟遊びの岸辺も、華やかな宴も、近江の穏やかな小波も、十分に知っていたと思います。

人麻呂は女帝に寄り添って近江朝を詠んだと私は思います。

ここでは、天武朝を詠んでいません。畝傍山の皇統を詠い、天智天皇を追慕しています。持統天皇の御代であれば、天武天皇崩御の後月日もたいして経っていないはずです。それでも、天武天皇ではなく天智天皇を懐かしみ、深く偲ぶ持統天皇。その心の内を人麻呂は知っていたのです。

 持統天皇がなぜ天智天皇を深く思っていたのか、以前も書きましたから、お分かりですよね。