松浦佐用姫の悲しい物語は有名ですが、ご存じですか。出兵する夫を見送る妻が、嘆き悲しんだという肥前松浦の伝承です。
大伴佐提比古郎子は、大伴金村の子です。宣化天皇の二年、新羅が任那を侵略した時、大伴金村の子の磐と狭手彦を遣わして救ったと、日本書紀にあります。狭手彦は佐提比古とも書き、名前の表記は違いますが、同じような話です。風土記では、佐用姫ではなく、肥前松浦の弟日姫子との別離の伝承です。万葉集では、憶良と旅人が詠んでいる佐用姫の物語になります。物語は若干違っていますが。
銅像の手を挙げている女性は、半島へ渡る舟を見送っているのです。ここは佐賀県唐津市の鏡山の展望所で、この人は松浦佐用姫、手に持っているのは領巾です。
彼女は「いってらっしゃい」と言っているのではないのです。「行かないで、舟よ帰って来て」と今生の別れを嘆いていると憶良は詠みました。
佐用姫は夫の大伴狭手彦がもう戻ってこないと思ったのでしょうか。七日も泣いて泣き明かして、ついには加部島まで追いかけて石になったという女性です。
行く船を 振り留みかね 如何ばかり 恋しくありけむ 松浦佐用姫 (山上憶良)
去り行く船を領巾を振って留めることもできず、どれほど恋しかっただろうか、松浦翔姫は。
愛しているのなら待ち続ければいいだろうに…何故に石になったのだろうか…私には不思議です。
他にも、鏡山の山頂の鏡山神社の前に、憶良の松浦佐用姫を詠んだ歌があります。
麻都良我多 佐用比賣能故何 比列布利斯 夜麻能名乃尾夜 伎々都々遠良武 (碑の歌)
まつらがた さよひめのこが ひれふりし やまのなのみや ききつつおらむ (碑の読み)
松浦縣 佐用姫の児が 領巾ふりし 山の名のみや 聞きつつ居らむ (山上憶良)
山上憶良は鏡山に登ったのでもなく、見たのでもありません。ただ、旅人たちが松浦の縣(あがた)に行ったと聞いただけです。『松浦縣と言えば、あの有名な佐用姫の物語があることは知っている。が、まだ山も見たことはない。佐用姫が領巾を振って別れを惜しんだという領巾振山の名前だけを聞いて居なければならないのだろうか、私は。何と残念なことか』という歌を詠んで、一緒に行けなかったことを悔しがっていると、旅人に伝えたのです。
旅人は「何と、憶良殿は私の先祖の大伴狭手彦の伝承をご存じだったのか。我が先祖は大王に仕えて活躍していたことを」と、嬉しかったでしょう。
鏡山の展望台からは、唐津湾が見えます。確かに出兵する船がよく見えたことでしょう。
憶良は佐用姫の歌ばかりではなく、玉島川の歌も送りました。玉島川は唐津湾に流れ込む川で、鏡山(領巾振山)の東側を流れています。旅人は松浦縣への旅で、玉島川でも遊び、歌を詠みました。憶良には、そのことも羨ましくて仕方なかったのです。
松浦の縣への楽しい旅に誘って欲しかったと、何度も何度も歌を詠んで、旅人に贈ったのです。
なにゆえに、憶良は悔やむのでしょう。「私たちは特別の仲ではないか」と言わんばかりです。実は、憶良は旅人に「私たちは、特別仲がいいのですよね」と、繰り返し歌で確かめています。もちろん、特別な関係になりたかったのです。旅人に信頼されたかった、その本心を聞かせてほしかったのです。
それって、なんのためでしょうね。
大宰帥と親しければ何かいいことがあるのでしょうか。いえいえ、憶良は旅人が何を考えているか知りたかっただけです。
これから都で起こるであろう大事件に旅人がどう対応するか、都の高官は心配していました。その命を受けた憶良は、日ごろ旅人がどのように考えているか、知りたかったのです。
何のために? 当然、都に報告するためです。それが、筑前の守、山上憶良の裏の仕事だったのです。
この事については、今年中に出版する「梅花の宴と大伴旅人」に書いています。
よかったら、詠んでくださいね。
では、この辺で。
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