人麻呂が編集した初期万葉集・巻一の冒頭歌と最終歌は何だったのか
巻一の冒頭歌は雄略天皇の御製歌でした。では、巻一の最終歌は何だったのでしょう。
ちょっと興味が湧きますね。現存する巻一の最終歌は長皇子の歌になっています。
以前にも書きましたが、長皇子は持統天皇のお気に入りでたいそう大事にされていました。ですから、巻一の最終歌には長皇子の歌が選ばれることに異存はないのですが、ちょっと変です。
それは、長皇子が佐紀の館で宴会をしてる時の歌で、わざわざ「長皇子、志貴皇子と佐紀の宮にしてともに宴する歌」と題詞が在るのに、志貴皇子の歌がないのです。題詞に名が在れば、その人の歌がもともとは置かれていたのではないかというのが、万葉集学者の意見でもあります。
わたしもそう思います。
では、元々あったのに外された…その理由は何でしょう。
おかしな歌だったから人麻呂が外したとは考えられません。そうであれば志貴皇子の名も出さず歌も当然掲載しないでしょう。後の人が意図的に外した、そうしか思えません。
しかし、それは何故でしょう。
ここで長皇子と志貴皇子の立場を考えてみましょう。
長皇子の母は、大江皇女で天智天皇の娘で、壬申の乱の後、皇女は天武天皇の后となり、二人の皇子を生んだと云うことです。人麻呂が歌を献じたことでも分かるように、長皇子は持統天皇にも愛されました長皇子にとって志貴皇子は叔父にあたります
志貴皇子は天智天皇の第七男子です。壬申の乱後、天武天皇の吉野盟約に選ばれた六人の皇子の一人でもあります。天智天皇の第七皇子でありながら天武朝でも大事にされ、天武の皇統が絶えたとき皇位を継承した光仁天皇は志貴皇子の王子でした。
どうやら、この辺りが志貴皇子の歌が外された理由だと思います。
志貴皇子は宝亀元年御春日天皇と追尊され、同年十月に田原天皇と追尊されました。平安時代の人にとって、志貴皇子はただの皇子ではないのです。光仁天皇・桓武天皇の直接の父であり祖父に当たります。
万葉集を手にした平城天皇は、自分の先祖の天皇の歌を「巻一の最終歌」としたくなかった! のではないでしょうか。
つまり、志貴皇子のその歌は大事にされて外されたのです。然し、別のところに目立つように置かれた…と、仮定すると該当する歌が一つ見つかります。探してみてください。
万葉集に掲載されている志貴皇子の歌の中から。
万葉集巻八の冒頭歌です。
1418 石はしる垂水の上の さわらびの もえ出る春に なりにけるかも
この歌を置いて他には相応しい歌は見つかりません。
「その時が来た。ああ、やっと来たのだ」という歌です。
岩の上を走る水が滝となってしぶきを上げて落ちていく。其の滝の上の岸に早春のワラビがたち始める、そんな春になって来たのだなあ。いよいよ春なのだ。
平城天皇は是を読んで感動したでしょう。そして、めでたくも巻八の冒頭に置いたのです。
時が流れて、皇統が天智朝に移ったという意味でこの歌を巻八の冒頭に置いた、そう考えると万葉集が本当に魅力的になりませんか。
歌の再編集をさせて移動したのは、もちろん平城天皇だとわたしは思います。